『死霊伝説 呪われた町』の個人的な感想・考察
『死霊伝説 呪われた町』の個人的な考察・感想
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①『死霊伝説 呪われた町』(2024年・アメリカ・監督:ゲイリー・ドーベルマン)
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② あらすじ(起承転結・ネタバレあり)
【起】
物語の舞台は、アメリカの小さな町セイラムズ・ロット。
冒頭、巨大で異様に重い木箱が運び込まれる。
人間数人がかりでも扱いに苦労する重さ。
しかもサイズ感はどう見ても棺。
途中で箱を落としてしまうと、中からこぼれたのは土だった。
ここでもう、
「これ棺じゃない?」
「しかも土?」
となる。
ロンドンから海を越えて運ばれてきた荷物。
吸血鬼ものをある程度知っていれば、
故郷の土とともに棺で移動する吸血鬼
というブラム・ストーカー以来の古典ルールがすぐに浮かぶ。
そして映画側も、そこを長く引っ張る気はない。
早々に怪物バーローの姿まで見せてしまう。
つまりこの映画は、
「この怪物の正体は何でしょう?」
を謎として引っ張る作品ではない。
最初からほぼ、
吸血鬼です。
と開示して始める。
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一方、作家のベン・ミアーズが故郷セイラムズ・ロットへ戻ってくる。
幼少期にはこの町で交通事故を経験しており、それ以来どこか故郷から逃げたような感覚を抱えていた。
小説の題材探し、自分自身との向き合い、町への再訪。
そんな理由を抱えながら戻ってきたベンは、スーザンと出会う。
スーザンはかなり積極的。
ベンへぐいぐい距離を詰めてくる。
その一方、学校にはマークという少年がいる。
眼鏡をかけ、周囲から浮き気味で、いじめの対象にもなっている。
ただし、このマーク。
めちゃくちゃ肝が据わっている。
怪異に対して怖がるだけではなく、
「じゃあどうすればいい?」
とすぐに行動へ移れる子ども。
この時点ではまだわからないけど、後になってみれば、
この映画の実質的ヒーローはマーク少年だった
といっていい。
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【承】
町では、少しずつ異変が起こり始める。
マークの友人であるダニーとラルフ兄弟。
特にダニーはかなりしっかりした子で、
「この子は生き残る側かな」
と思わせる。
しかし兄弟そろって、吸血鬼の餌食になってしまう。
ダニーは夜中に襲われ、病院へ運ばれる。
血液が異常に減っている。
輸血をしても追いつかない。
そして喉が渇く。
はい。
完全に吸血鬼。
ここまで来ると、もう100%。
映画も隠さない。
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そこから作品は、町のさまざまな住民へ順番にフォーカスを移していく。
この人は誰?
重要人物?
生き残る?
と思っていると、
次々と吸血鬼の餌食になっていく。
これが結構うまい。
誰が最後まで残る人間なのか、簡単には決め打ちできない。
しかも、町の住民一人一人を少しずつ見せることによって、
セイラムズ・ロットという町全体が一つの登場人物になっていく。
吸血鬼が一人の人間を襲う話ではない。
町そのものが感染していく。
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中でも先生はかなり重要。
マイクの異常な様子を見て、
かなり早い段階で、
「これ、吸血鬼なんじゃないか?」
までたどり着く。
面白いのは、そこで真っ先に神父のもとへ走らないこと。
まず向かったのはベン。
ここに田舎町でありながら現代人らしい、
信仰の薄さ
も感じる。
吸血鬼という言葉は知っている。
十字架や杭という知識もある。
でも本気でそんなものがいるとは思っていない。
だからまず、比較的外部の視点を持つベンへ話を持っていく。
怪異が現実として積み上がっていったところで、ようやく宗教的なものが実用的な武器へ変わっていく。
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そして、この映画の吸血鬼ルールは非常に王道。
十字架。
祈り。
教会。
日光。
杭。
棺。
故郷の土。
古典的な吸血鬼の弱点や制約を、ほとんどひねらず真正面から使う。
今どきの吸血鬼ものだと、
「十字架なんて効かない」
「そんな古い迷信は通用しません」
と外してくることも多い。
でも本作は、
いや、ちゃんと効きます。
この潔さがいい。
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【転】
吸血鬼の存在を理解した頃には、すでに町はかなり侵食されている。
町を歩く人間が明らかに減っている。
昨日まで知っていた顔が消えている。
そして夜になると、吸血鬼側の住民が増えていく。
ベンたちはまだ、
「町の人たちを避難させなければ」
と考える。
でも観客にはもうわかっている。
とっくに手遅れ。
町そのものが、ほとんど死んでいる。
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生き残った主なメンバーは、
ベン。
スーザン。
マーク。
神父。
ドクター。
しかし、ここからもどんどん削られていく。
スーザンの母親も吸血鬼側へ。
だからスーザンが母親のもとへ向かう時点で、
「ああ、これスーザンもやられるな」
と読める。
そして実際、その通りになる。
本当にこの映画、
予想を裏切ろうとしない。
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そしてドライブインシアター。
映画の途中で出てきた時点で、
「こんな目立つ場所、絶対あとで使うだろ」
と思っていた。
やっぱり使う。
町の吸血鬼たちは、
車を棺代わりにして眠っていた。
これが絵としてかなり面白い。
墓地へ並ぶ棺ではなく、
ドライブインシアターに並ぶ自動車が棺。
アメリカ郊外の文化そのものを、吸血鬼の墓場にしてしまう。
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その中には、吸血鬼となったスーザンもいる。
ベンは彼女へ杭を打つことができない。
代わりにドクターがやろうとする。
しかしそこへスーザンの母親が現れ、銃撃。
ドクターは死亡する。
ここも、
「来るだろうな」
と思ったものが、そのまま来る。
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ただしここは一つ、
「別に杭じゃなくてもよくない?」
とは思った。
まだ日が出ている。
この映画では日光が明確に有効。
だったら、
スーザンを外へ放り出せばよかったのでは?
と。
後で日光を浴びた吸血鬼たちが一掃されるので、余計にそう思う。
まあここは、
「愛していたスーザンを、ベン自身が杭で殺せるのか」
というドラマを作るためなんでしょう。
映画としての盛り上がり優先。
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そしてまたしてもマーク少年。
ドライブインの巨大スクリーンを倒し、
日光を町の吸血鬼たちへ浴びせる。
一掃。
本当にこの子、
MVP。
大人たちより決断が早い。
怪異を理解するのも早い。
行動力もある。
勇敢。
機転も利く。
ずっとヒーローだった。
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【結】
最後は、吸血鬼の主であるバーローとの決戦。
ここまで町全体を壊滅させた元凶。
どう倒すんだ?
どんな凄まじい最終決戦になる?
と思うけれど、
怪物本体の最後は意外なほどあっけない。
古典ルール通り、
弱点を突かれ、
倒される。
でも、それでいい。
この映画の本体は、
バーローとの一騎打ちではない。
バーローがこの町へ入った結果、セイラムズ・ロットそのものがどう死んでいったか。
そこだから。
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元凶を倒しても、
町は元通りにならない。
住民のほとんどは死んだか吸血鬼になった。
日常は戻らない。
残った者は町を去るしかない。
ベンとマークはセイラムズ・ロットを離れる。
残されたのは、
ほぼゴーストタウンとなった町。
吸血鬼そのものには勝った。
でも町は救えなかった。
そんな結末で物語は終わる。
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③ 考察・感想・まとめ
『死霊伝説 呪われた町』。
初めて観ました。
原作がスティーヴン・キングの大ヒット小説なのは知っていたけど、日本人の私は原作未読。
なので話の中身はほぼ知らない状態。
そして始まってすぐ、
あ、これ直球の吸血鬼ものなんだ。
となった。
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冒頭の木箱でもうわかる。
重い。
でかい。
棺サイズ。
しかも落としたら土が出てくる。
いやもう、
棺じゃん。吸血鬼じゃん。
となる。
さらにロンドンから輸送。
海を越えるために故郷の土と棺を持っていく。
完全にブラム・ストーカー。
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しかもバーロー本人の顔までかなり早く出す。
これは意外だった。
もっと、
「町で何が起きているのか?」
を引っ張るのかと思ったら、
全然そんなことはしない。
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でも考えてみると、
これがものすごくスティーヴン・キングらしい。
キングって、
謎を謎のままずっと引っ張ること自体を目的にする作家じゃない。
むしろ正体を比較的早めに見せて、
「じゃあ、それを知った人間がどうする?」
を厚く描く。
怪物の正体より、
怪物と向き合った人間。
怪異へ侵食される町。
共同体。
子ども。
大人。
家庭。
宗教。
そっちを描く。
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今回もまさにそれ。
吸血鬼であることを隠さない。
古典ルールも隠さない。
その代わり、
吸血鬼が一つの町へ入ったら、町がどう死んでいくのか
を描く。
ここがキング。
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そして町と住民を一つの存在として扱うところも、
ものすごくキングらしい。
教師。
医者。
神父。
子ども。
親。
恋人。
町の嫌な人間。
普通の住人。
いろんな人へフォーカスする。
最初は、
「誰が主人公側になるの?」
というくらい視点が散っている。
でも、それがいい。
なぜなら、
主人公の一人はセイラムズ・ロットという町そのものだから。
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吸血鬼が町へ来る。
一人やられる。
その人が別の人間をやる。
また増える。
また一人消える。
気づいた頃には、
町を歩いている生者そのものが減っている。
町そのものが少しずつ死体へ変わっていく。
この見せ方はかなり上手かった。
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そして子ども。
マーク少年。
これまたキングらしい。
大人より強い(笑)。
大人は、
「そんなもの本当にいるのか?」
「これはどういう現象だ?」
「まず確認を」
となる。
でも子どもは早い。
「いるんだな」
「じゃあどう倒す?」
へ行く。
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『IT』なんかでもそうだけど、
キング作品の子どもって、
大人より怪異への適応が早いんですよね。
理屈で世界を固定しきってないから、
「あり得ないものがいる」
を受け入れられる。
そのうえマークは単純に勇敢。
最後まで本当に頼れる。
今回、
実質主役はマーク君だったんじゃない?
くらい活躍してた。
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そして本作は、
吸血鬼ものとしてもちゃんと成立している。
ここがかなり大事。
キングだからといって、
古典吸血鬼を無理にひねらない。
ブラム・ストーカーの文法をちゃんと踏襲する。
棺。
土。
十字架。
日光。
祈祷。
教会。
杭。
夜。
吸血鬼という怪物が吸血鬼であるための基本を、
ちゃんと守る。
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これは簡単そうに見えて、
実はかなり重要なことだと思う。
創作って、
先人が作った型を、
「古いから」
という理由だけで壊せばいいわけじゃない。
なぜそのルールがあるのか。
なぜ百年以上残っているのか。
そこをまず理解する。
そして自分の中へ落とし込む。
そのあとで、
自分なりのアレンジをする。
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キングはそれができている。
**ブラム・ストーカーをちゃんと理解したうえで、
「じゃあドラキュラ的な吸血鬼が、現代アメリカの田舎町へ入ったら?」
をやる。**
だから土台がブレない。
古典への敬意と、
キング自身の作家性が両立している。
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今は吸血鬼ものなんて山ほどある。
映画。
ドラマ。
漫画。
小説。
それだけ多ければ、
当然微妙な作品もめちゃくちゃ多い。
吸血鬼という設定だけ借りて、
途中からただのモンスターになるものもある。
恋愛へ寄りすぎたり、
アクションへ寄りすぎたり、
ルールが都合よく変わったり。
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その中で『呪われた町』は、
最初から最後まで、
ちゃんと吸血鬼もの。
そこは強い。
近年なら『アビゲイル』なんかも、
古典吸血鬼のルールを理解したうえで現代娯楽映画としてかなり上手く使っていたと思う。
日本の漫画なら、
私ならやっぱり『HELLSING』。
古典を徹底的に咀嚼して、
そこからあそこまで巨大な別物へ再構築した。
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でも『呪われた町』は1975年。
しかも驚いたのが、
**原作は『キャリー』の次。
キングの長編第2作。**
これを知ると評価がかなり変わった。
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後年のキング作品を知っている状態だと、
「王道の吸血鬼ものだな」
で終わってしまいそうになる。
でも1975年。
長編2作目。
その時点で、
ブラム・ストーカーの吸血鬼文法をしっかり踏襲しながら、
町。
共同体。
子ども。
宗教。
家庭。
人間関係。
そこへ自分の作家性を全部乗せ始めている。
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『キャリー』ですでに、
一人の少女だけではなく、
家庭。
学校。
いじめ。
宗教。
町の視線。
そういう周囲の環境まで含めてキャリーを描いた。
『呪われた町』では、
そこからさらに広げる。
町そのものを一つの生命体として描く。
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そこから後の『IT』なんかへつながっていく系譜も見える。
『キャリー』では、
共同体の中で個人が壊れる。
『呪われた町』では、
共同体そのものが怪異に侵食される。
『IT』では、
怪異と町そのものが深く癒着する。
もちろん単純な一直線ではないけど、
「キングは怪物を書く人というより、
怪物が入り込んだ人間社会を書く人」
という作家性が、
もうこの時点でかなり見えている。
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だから、
「ドラキュラ以降の重要な吸血鬼小説」
として名前が挙がるのも納得した。
映画だけを今の感覚で観れば、
ものすごく革新的な吸血鬼ものではない。
むしろ王道。
でも、
1975年に、これをキング流へ仕上げた。
そこを考えれば意味は大きい。
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そして、
先人から学ぶ姿勢。
今回そこも改めてキングの凄味を感じた。
これ、
現代のホラー作家にも本当に見習ってほしいと思う。
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「キングが好き」
「キングみたいなホラーを書きたい」
それ自体はいい。
でも、
好きなだけでは足りない。
表面の記号だけ真似しても、
キングにはならない。
田舎町。
子ども。
怪物。
宗教。
狂気。
血。
閉鎖共同体。
そういうものを置けばキングっぽくなるわけじゃない。
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重要なのは、
**なぜキングはそこに町を置いたのか。
なぜ子どもなのか。
なぜその怪物なのか。
怪物が来たことで人間関係がどう変わるのか。
何が壊れて、
何が残るのか。**
そこまで読むこと。
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好きなら、
もっと読め。
もっと咀嚼しろ。
もっと分析しろ。
なんですよね。
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発想だけはものすごく面白い。
でも骨格が弱い。
そういうホラーって結構ある。
シャマランの『オールド』なんか、
私の中ではまさにそれ。
「時間が異常に進む浜辺」
なんて、
めちゃくちゃ面白い発想。
なのに、
そのアイデアを支える因果や人物行動やルールが弱い。
結果、
ネタは最高なのに、ものすごくもったいない。
となる。
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アイデアが強ければ強いほど、
骨格の弱さも目立つ。
だから先人から学ぶことが重要なんだと思う。
ブラム・ストーカーなら、
怪物へどういう制約を与えれば、
恐怖と対抗手段が両立するか。
ラヴクラフトなら、
断片的な情報をどう積み上げれば、
巨大な真実へ観客自身をたどり着かせられるか。
キングなら、
怪異をどう人間社会へ入れれば、
人間ドラマそのものがホラーになるのか。
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そういう部分を理解したうえで、
新しい発想を乗せる。
型を知ってから、
型を破る。
その素直さって、
作家にはものすごく大事なんだと思う。
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キングはそれを本当に自然にやっている。
古典を読む。
理解する。
吸収する。
自分の中で消化する。
そして、
完全に自分の作品として出す。
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『呪われた町』は、
ブラム・ストーカーの真似ではない。
でも、
ブラム・ストーカーを読んで理解した人間が書いたことは、
ものすごくよくわかる。
そのうえで、
完全にキング。
そこがすごい。
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ただし映画版について、
一つだけ明確にもったいなかったところもある。
冒頭の地図。
血の道が地図上を進みながら、
テロップで町の経緯が流れる場面。
あそこ、
初見だとかなりわかりにくかった。
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ロンドンから輸送された荷物。
謎の失踪。
館の売却。
骨董屋。
不動産。
教会。
ドライブインシアター。
そしてバーローの棺。
これが高速で流れる。
だから最初、
「ロンドンから何らかの呪物が町へ渡った?」
「その力で町が発展した?」
「恩恵と引き換えに呪われた土地になった?」
くらいに読んでしまった。
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でも実際は違う。
単純に、
バーローのしもべであるストレイカーが、
主をアメリカへ移すため先に町へ入る。
館を押さえる。
骨董屋を開く。
現地での足場を作る。
それから、
バーローを棺ごとロンドンから運び込む。
つまり、
町の発展がバーローの力によるものではない。
完成済みの普通の町へ、
吸血鬼側が侵入する準備をしただけ。
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ここは本当に、
映画側がはしょりすぎ。
2分。
いや、
90秒でもいい。
ストレイカーが不動産屋で館を契約。
骨董店を準備。
輸送業者へ連絡。
「荷物は予定通り届く」
くらいの一言。
そして巨大な木箱到着。
これだけで、
「あ、こいつが先遣隊で、あとから主を呼び込んだんだな」
と一発でわかる。
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本編へ入ってからの疾走感はすごく良かった。
町が犯されていく速度。
住民が減る速度。
吸血鬼が増える速度。
そこは削らなくていい。
むしろあのテンポが作品の強み。
だからこそ、
削るところ、そこじゃなくない?
とは思った。
入口だけ少し雑だった。
そこだけはもったいない。
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ベンの幼少期の交通事故も、
最初はバーローやマーステン館に何かつながるのかと思った。
でも最終的には、
直接的な怪異の伏線ではなかった。
ベン自身が町へ戻るための心理的な理由。
故郷から逃げた感覚。
自分探し。
小説の題材。
そういうもの。
ここも映画尺への圧縮を感じるところではあった。
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ただ、
そういう多少の端折りはあっても、
本筋そのものはかなり整っている。
しかも展開が速い。
たるまない。
怪異の開示も早い。
町の崩壊も速い。
でも、
雑に人を殺しているわけではなく、
それぞれの住民へ一度フォーカスしてから吸血鬼側へ取り込んでいく。
だから、
「町が減ってる」
がちゃんと実感できる。
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怖いかと言われると、
私はそんなに怖くなかった。
吸血鬼だと最初からわかる。
弱点もわかる。
ルールも明確。
未知の恐怖は少ない。
でも、
面白さはしっかりある。
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そして最後までブレない。
吸血鬼が町へ来る。
感染する。
町が死ぬ。
理解した人間が抵抗する。
でも気づいた時には手遅れ。
元凶を倒す。
しかし町は戻らない。
生存者だけが去る。
ゴーストタウン。
最初から最後まで一本筋が通っている。
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だから映画としても、
かなり素直に良作でした。
めちゃくちゃ怖い!
ものすごい大傑作!
という感じではない。
私個人なら、
『ミスト』。
『キャリー』。
町を描くなら『IT』。
そのへんのほうが強く好き。
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でも、
「原作が1975年、しかも『キャリー』の次」
まで含めて考えると、
『呪われた町』を見る目はかなり変わった。
初期からもう、
キングという作家の強さが出ている。
古典を理解する。
自分の中へ落とす。
自分のテーマへ変換する。
怪物より人間を見る。
個人だけでなく町を見る。
子どもを強く描く。
怪異が人間社会をどう変えるかを描く。
後の作品につながるものが、
すでにかなり揃っている。
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そして最終的に今回一番感じたのは、
スティーヴン・キング、やっぱりすごいな。
ということだった。
こんな言葉で片付けるのは少しチープかもしれない。
本人の努力も、
読書量も、
勉強も、
情熱も、
膨大な執筆量もある。
それを全部、
「天才だから」
で済ませるのは失礼かもしれない。
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でも、
それでもやっぱり、
天才なんだと思う。
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努力だけでは説明しきれない感覚。
何を怖がらせれば人間に効くのか。
どこへ怪異を置けば物語になるのか。
怪物そのものではなく、
その周囲の人間をどう動かすか。
町をどう一つの生き物として描くか。
子どもをどう使うか。
古典をどこまで残し、
どこから自分のものへ変えるか。
その判断のセンスが、
やっぱり常人離れしている。
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しかも天才なのに、
先人からちゃんと学ぶ。
読む。
咀嚼する。
研究する。
書く。
失敗してもまた書く。
ずっと続ける。
才能 × 努力 × 情熱 × 勉強 × 継続。
そりゃあ強い。
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『死霊伝説 呪われた町』。
一本の吸血鬼映画としても、
王道を外さず、
テンポよく、
町が滅びていく過程をしっかり描いた良作。
そして原作の成立時期まで知ると、
スティーヴン・キングという作家が、いかに早い段階から自分の方法論を持っていたのかがよく見える作品。
怖さよりも、
面白さ。
派手な新奇性よりも、
揺るがない基礎。
そして古典をちゃんと学んだうえで、
自分のものへ変える力。
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今回、
吸血鬼映画を一本観たという以上に、
キングの凄味を改めて確認した一本でした。
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