『ボディ・ハント』の個人的な感想・考察

 『ボディ・ハント』の個人的な感想・考察

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①『ボディ・ハント』(2012年・アメリカ/カナダ・監督:マーク・トンデライ)


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② あらすじ(起承転結・ネタバレあり)

【起】

エリッサは、母親とともに新しい町へ引っ越してくる。

近所には、かつて一家惨殺事件が起きた家がある。

その家で暮らしているのは、ライアンという若い青年。

町の人々は彼を気味悪がり、事件の家の住人として距離を置いている。

しかしエリッサは、周囲の噂だけでライアンを判断しない。

実際に話してみると、彼は物静かで繊細そうな青年に見える。

二人は少しずつ距離を縮めていく。

一方で、ライアンの家には“メアリーアン”という少女がいる。

彼は彼女を妹として扱っているが、その存在にはどこか不自然なものがある。

メアリーアンは外へ出たがる。

森へ逃げる。

ライアンは彼女を捕まえ、家へ戻す。

最初は、

「精神的に不安定な妹を、兄が面倒見ている」

ようにも見える。

しかし少しずつ、

これは本当に妹なのか?

という疑問が浮かび始める。

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【承】

エリッサはライアンと関わるうちに、彼の過去について知っていく。

幼い頃、妹メアリーアンはブランコ事故で死亡した。

当時、両親はドラッグを使用しており、まともに子どもを見ていなかった。

事故そのものは、最悪の形で起きた家庭事故だった。

しかし、その後の両親の行動が決定的に異常だった。

父親はスコップを持ち、

「片付いた」

というような態度を見せる。

つまり、メアリーアンの死を公にせず、遺体を隠した可能性が高い。

ここで観客には新たな疑問が出る。

では、現在ライアンが“メアリーアン”と呼んでいる少女は誰なのか?

両親が別の子どもを誘拐し、脳障害などを装って家に閉じ込めたのか?

一見するとそうも見える。

しかし、細かい部分がどうにも噛み合わない。

ライアンが7歳の頃に伯母へ預けられたという話。

「実際には伯母の世話をしていた」という説明。

しかし7歳の子どもが?

そして冒頭の家族の記憶。

メアリーアンの年齢感。

どれも、少しずつしっくりこない。

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現在の“メアリーアン”についても、観客にはかなり早い段階で読める。

彼女は本物の妹ではない。

ライアンが誰か別の女性を“メアリーアン”として扱っている。

だから森へ逃げるのは、

頭がおかしいからではない。

監禁されているから逃げている。

ライアンは女性を捕まえ、

妹の役割を押しつけ、

家の中に閉じ込めている。

ここまでは比較的読みやすい。

しかし、ではなぜそこまでメアリーアンに固執するのか。

ライアンが過去について語る、

「お仕置きされた」

「やめさせた」

という言葉は何を意味しているのか。

この二つだけが最後まで微妙に浮いたまま残る。

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【転】

エリッサが真実へ近づいたことで、ライアンの隠していた世界は崩れ始める。

そして彼はパニックへ陥る。

ここからライアンの行動はかなりずさんになる。

秘密を隠そうとする。

その場しのぎで対処する。

証拠を処理する。

さらに警察官まで殺してしまう。

冷静な知能犯というより、

自分が必死に維持してきた世界が崩壊して、子どものようにパニックを起こしている

ように見える。

あんな処理では、もう隠し通せるはずがない。

その危うさが、恐ろしさと同時に哀れさにもつながっていく。

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そして最後に、すべての辻褄が合う。

ライアンが7歳で伯母の家へ預けられたという話。

メアリーアンの存在。

“お仕置き”。

“やめさせた”。

その意味。

実際には、

ライアン自身が、幼い頃から“メアリーアン”を演じさせられていた。

妹を事故で失った両親は、その死を受け入れられなかった。

だから息子であるライアンを、

死んだ娘メアリーアンの代わりにした。

髪。

服。

振る舞い。

役割。

ライアン自身の人格を否定し、

“メアリーアン”であることを強制した。

そして役から外れれば、

“お仕置き”。

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つまり、

「伯母の家へ預けられた」

という話自体が嘘だった可能性が高い。

ライアンは家の中で、ずっと妹として扱われていた。

そして、

“やめさせた”

とは、

両親を殺した

という意味だった。

ここでようやく、それまでの違和感がすべて一本につながる。

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【結】

ライアンは、子どもの頃に自分へ押しつけられた構造を、大人になってから他人へ再演していた。

両親にとって、

“メアリーアンが必要だった”。

だからライアンを代用品にした。

そして大人になったライアンにとっても、

“メアリーアンが必要になった”。

だから今度は、自分が別の女性へその役割を押しつける。

被害者だった子どもが、

そのまま加害者の構造を継承してしまった。

最終的にライアンは逮捕される。

しかし映画は、彼を殺して終わらせない。

ライアンは警察の管理下にある精神病棟へ送られる。

そしてエリッサは、母親とともに町を離れる。

引っ越しの途中、彼女はライアンとの思い出が残る樹を見る。

そして静かに涙を流す。

そこには恐怖だけではない。

恋。

信頼。

裏切り。

悲しみ。

そして、

ライアンという人間そのものへの哀れみ。

そうした複雑な感情が残っているように見える。

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③ 考察・感想・まとめ

『ボディ・ハント』。

最初は、

「この邦題どうなんだ?」

とも思いました。

でも最後まで観ると、

意外と合っている。

ライアンが探しているのは、

単なる女性ではない。

“メアリーアンになれる身体”

だから。

本人である必要はない。

人格も必要ない。

役割を埋められる“ボディ”が必要。

そう考えると、

『ボディ・ハント』

という邦題も、結果的にはかなり作品の核心に近い。

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この映画、かなり読みやすいです。

伏線もわかりやすい。

ライアンが怪しい。

メアリーアンが本物ではない。

監禁している。

過去に大きな秘密がある。

ここまでは比較的早い段階で読める。

でも、

核だけは最後まで隠す。

このバランスがすごく上手い。

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『ラディウス』と似ているんですよね。

先が読める。

でもつまらないわけではない。

むしろ観客のほうが登場人物より一歩先を歩きながら、

「じゃあ核心は何?」

を追える。

そして最後に、

読めていた部分の意味そのものが変わる。

これが気持ちいい。

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ライアンが女性を“メアリーアン”にしている。

そこは読める。

でも最後に、

「ライアン自身も、子どもの頃にメアリーアンを演じさせられていた」

とわかる。

ここでそれまでの行動が全部、

単なる異常性ではなく、

虐待の再演

として見える。

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だからライアンは、

ただのサイコキラーではない。

やっていることはもちろん許されない。

監禁。

人格の強制。

殺人。

警察官まで殺す。

被害者はいる。

責任もある。

そこは軽くできない。

でも、

だからといって、簡単に怪物として切り捨てることもできない。

ここがこの映画の厚み。

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幼少期のライアンは、

妹を事故で失う。

しかも両親はドラッグを使用していて、

事故を防げなかった。

その時点でかなり悲惨。

でも本当の地獄はそのあと。

両親は妹の死を受け入れない。

遺体を隠す。

そして息子を死んだ娘にする。

自分として生きることを許さない。

メアリーアンとして振る舞わせる。

できなければ罰。

これを7歳頃からやられる。

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そりゃあ壊れる。

というのが、どうしても残る。

人格形成のかなり早い段階から、

家庭そのものが異常。

自分の名前。

自分の性別役割。

自分の人格。

全部親によって上書きされる。

ライアンという人間そのものを、

存在させてもらえなかった。

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だから、

「人格は親によって作られたと言っても過言ではない」

くらいの感覚になる。

もちろん、

成人後の犯罪行為まで全部両親の責任、

とは言えない。

でも、

まともな人生のスタートラインに立てていない。

これもまた事実として重い。

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そして両親を殺したあとも、

ライアンには救済がない。

ここも重要。

もしあの時点で警察に保護され、

精神科的なケアを受け、

自分が受けてきた虐待を整理する機会が与えられていたら。

映画としては成立しなくなるけど、

少なくとも現在の事件には至らなかった可能性がある。

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殺人は殺人。

でも当時のライアンの状態を考えると、

単純に、

「親を殺した悪い子ども」

とだけ断罪するのも難しい。

彼自身、

相当に壊されている。

そしてその後、

誰にも止めてもらえなかった。

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ここが『ラディウス』との大きな違いでもある。

『ラディウス』のリアムは、

事故によって一度リセットされた。

過去の殺人。

記憶。

人格。

その大部分を失った。

そしてネオ・リアムとして、

別の自分を実際に生きる機会を得た。

その結果、

善なる行動を選べた。

最後には過去を取り戻しても、

ネオ・リアムとして得た善を失わず、

他人を守るために自分を止めることができた。

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ライアンには、

それがない。

一度もリセットされない。

一度も別の生き方を教えてもらえない。

一度も自分の過去を外側から整理する機会がない。

だから、

自分を止めるきっかけがない。

それがものすごく可哀想。

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被害者だった子どもが、

大人になって加害者になる。

そして、

自分がされたことを、そのまま他人へする。

これはかなり悲しい構造です。

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だから、

“メアリーアンが必要だった”

という言葉が二重になる。

昔は、

両親にとってメアリーアンが必要だった。

娘の死を受け入れられないから。

今は、

ライアンにとってメアリーアンが必要だった。

自分自身がその役割を強制され続けた結果、

その構造なしでは生きられなくなった。

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ここには『サイコ』っぽさもある。

失われた家族。

歪んだ親子関係。

死者の代替。

家族の役割を再現し続ける犯罪。

かなり『サイコ』的。

ただし方向は違う。

『サイコ』が、

死者を自分の内側へ取り込む

方向なら、

『ボディ・ハント』は、

死者を外部の人間へ演じさせる

方向。

外部化された“メアリーアン”。

そう考えると、かなり興味深い。

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そしてライアンの終盤のパニック。

これも好きです。

秘密がバレる。

計画が崩れる。

そこで、

完璧なサイコキラーとして冷静に証拠を消す、

とはならない。

めちゃくちゃになる。

隠す。

殺す。

また隠す。

警察まで殺す。

どんどん逃げ道を失う。

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見ていて、

「いや、そんな処理じゃ絶対隠せないよ」

となる。

でも、それが逆にライアンらしい。

彼は犯罪の天才ではない。

自分の中で必死に維持してきた世界が壊れて、

パニックを起こした子どものまま

なんですよね。

だから恐ろしいと同時に、

哀れ。

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そしてこの映画、

ライアン一人だけを“悪”として見せないのも面白い。

中盤のタイラー一派。

こいつらがまた酷い。

集団暴行。

車の破壊。

さらに放火。

そこまでやる。

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しかも彼らは、

ライアンが実際に殺人犯だという真実を知っているわけではない。

ただ、

両親が殺された家。

気味の悪い青年。

町の噂。

その程度で、

勝手にライアンを怪物扱いしている。

つまり、

知らないのに排除している。

ここがかなり嫌。

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表向きの情報だけなら、

ライアンは、

両親を惨殺された若者。

孤独に暮らしている。

まだ20歳程度。

そんな人間。

だったら、

「大丈夫か?」

と寄り添う人がいてもいいはず。

むしろ地域社会が支えてもおかしくない。

なのに町は最初から、

“あの家の変なやつ”

として扱う。

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家庭でも救われない。

地域でも救われない。

二重に孤立してる。

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あの警察官だけが、

比較的ライアンをかばっている。

彼だけは、

噂だけで完全な怪物扱いをしない。

だから余計に、

地域社会の冷たさが目立つ。

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ここは『PIGGY ピギー』なんかにも少し似てると思いました。

怪物一人の異常だけを見るのではなく、

その怪物を作りやすい環境そのものがある。

いじめ。

嘲笑。

排除。

無理解。

見て見ぬふり。

共同体側にも醜さがある。

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もちろん、

「町が酷いからライアンは殺人犯になった」

という単純な話ではない。

もっと根本的な原因は家庭。

でも、

家庭で壊されたライアンを、

地域社会が回復させるどころか、

さらに孤立させた。

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つまり、

壊れた人間を、周囲がさらに“怪物”として固定してしまった。

そうも見える。

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しかもタイラー一派は、

現在進行形でわかりやすく悪い。

群れる。

殴る。

壊す。

燃やす。

それに対してライアンは、

実際には殺人犯。

でも観客は背景を知る。

親に人格を壊された。

妹を演じさせられた。

罰を受けた。

孤立した。

誰にも救われなかった。

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だから、

犯罪としてはライアンのほうが圧倒的に重いのに、

映画を見ている感覚では、

タイラー一派のほうが単純な“悪”に見える。

ライアンには、

どうしても同情の余地が残る。

この対比もかなり上手かった。

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そして最後。

ライアンを殺さなかった脚本。

これは本当に良かった。

もし普通のスリラーなら、

エリッサが反撃。

ライアン死亡。

怪物を倒しました。

事件解決。

で終われる。

でもそれをやると、

ライアンという人物を、

単純な倒すべき怪物にしてしまう。

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この映画は、

彼を精神病棟へ送る。

これは、

無罪でもない。

許されたわけでもない。

犯罪が軽くなったわけでもない。

でも、

「この人はただの犯罪者ではなく、深刻に壊れた人間でもある」

ということを最後に残す。

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刑務所だけで終わるのとは、

意味が違う。

ライアンは人生で初めて、

誰かに止められた。

遅すぎたけれど、

ようやく社会が、

「この人は壊れている」

と認識した。

そう考えると、

精神病棟という結末にも、

ほんの少し救いがある。

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そしてもう一つ。

引っ越していくエリッサ。

ライアンとの思い出の樹を見る。

そして涙を流す。

ここ、かなり印象に残りました。

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エリッサにとって、

ライアンは怖かった。

裏切られた。

殺されかけた。

真実を知った。

でも、

それだけじゃない。

そこには恋もあった。

信頼もあった。

一緒に過ごした時間もある。

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そしてすべてを知ったあとでは、

ライアン自身への哀れみ

もあったと思う。

あの人も、

ものすごく酷いことをされた子どもだった。

誰にも救われなかった。

そして壊れた。

だから、

エリッサの涙は、

単純な恐怖のフラッシュバックではない。

悲しみ。

恋。

裏切り。

哀れみ。

博愛心とでもいうようなもの。

いろいろ混ざっている。

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ここも『ラディウス』に似ている。

人間を一方向で見ない。

リアムは殺人鬼だった。

でも善もあった。

ライアンは加害者だった。

でも深刻な被害者でもあった。

善人。

悪人。

被害者。

加害者。

そういう一語で人間を切り分けない。

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エリッサも最後に、

「怖い殺人犯だった」

だけでは終わらない。

「あの人も可哀想だった」

まで知ってしまった。

だから泣く。

これは赦しとは違う。

犯罪を肯定しているわけでもない。

ただ、

一人の人間として完全には切り捨てられない。

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その意味では、

エリッサが最後に涙を流してくれたこと自体も、

ライアンにとってほんの少しの救いだったように感じます。

彼を完全な怪物としか見ない人間だけが残ったわけではない。

少なくとも一人、

彼がどう壊されたのかを知り、

彼との時間を思い出して泣いてくれる人がいた。

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だからラストは、

犯人逮捕。

めでたし。

ではない。

“壊された人間の末路”

として終わる。

そこがかなり良い。

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『ボディ・ハント』って、

テンポがいいんですよね。

さらっと進む。

だから何も考えずに観れば、

「普通に面白いスリラーだった」

で終われる。

それでも十分成立する。

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でも、

止まって考えると、

かなり厚い。

家庭内虐待。

喪失否認。

人格の強制。

死者の代替。

被害から加害への反転。

救済の不在。

地域社会の偏見。

群衆の暴力。

孤立。

人間をどこまで断罪できるのか。

そして最後に残る哀れみ。

ここまで入ってる。

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しかも、

「こういうテーマがあります!」

と説明しない。

あくまでスリラーのテンポを維持している。

だから深いのに重たすぎない。

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これも『ラディウス』とかなり似た感触でした。

深いけど、深読みしないと物語がわからない映画ではない。

表面だけでもちゃんと面白い。

でも掘ると、

「あれも意味あったんだな」

「ここもつながってたんだな」

が増える。

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そして伏線も綺麗。

読める。

でも核心は残す。

違和感を少しずつ置く。

最後に、

“ライアン自身がメアリーアンだった”

で全部回収。

その瞬間、

これまで読めていたものまで意味が変わる。

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だから、

先が読めてもつまらなくない。

結末まである程度読めても、

完成度が高い。

ここも『ラディウス』と同じ。

どんでん返しの意外性だけで勝負してない。

伏線と回収そのものの綺麗さで見せる。

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そして最終的には、

かなり人間的な映画でした。

ライアンは怪物だった。

でも、

怪物でしかなかったわけではない。

最初から怪物だったわけでもない。

家庭によって壊された。

その後も救われなかった。

地域にも排除された。

そして自分がされたことを、

他人へ繰り返した。

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許されない。

でも、

可哀想。

この二つが同時に残る。

それを無理にどちらかへ整理しない。

だから良い。

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最終評価。

かなり良作でした。

テンポの良い娯楽スリラーとして、

普通に面白い。

伏線も読みやすい。

回収も綺麗。

クライマックスもテンポがいい。

でも、

その下にはかなり厚い人間ドラマがある。

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刹那的な娯楽として、

「面白かった」

だけで済ませることもできる。

でも、

そんな薄い話ではなかった。

家庭によって壊された一人の子どもが、誰にも救われないまま加害者となり、最後にようやく止められる。

そして、

その彼を一人の人間として想い、

涙を流してくれる人が残る。

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怖い。

悲しい。

哀れ。

でも少しだけ優しい。

伏線、回収、心理、社会、人物の余韻まで綺麗にまとまった、かなり完成度の高い心理ミステリー・スリラー。

そんな一本でした。


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