『ガール・イン・ザ・ミラー』の個人的な感想
『ガール・イン・ザ・ミラー』の個人的な感想
①『ガール・イン・ザ・ミラー』(2018年・カナダ・監督・脚本:アサフ・バーンスタイン)
原題:『LOOK AWAY』
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②あらすじ
【起】
17歳のマリアは、裕福な家庭に生まれながらも、自分にまったく自信を持てずにいた。
学校では同級生のマークからいじめを受け、唯一の親友であるリリーとも、対等な友情を築けているとは言い難い。マリアはリリーの恋人ショーンに密かに思いを寄せていたが、その気持ちを表へ出すこともできず、いつも周囲の顔色をうかがいながら生きていた。
家庭にも安らげる場所はない。
美容整形外科医の父ダンは、家族を自分の理想どおりに整えようとする完璧主義者で、マリアの容姿にも平然と欠点を指摘する。母エイミーには娘への愛情があるものの、精神的に不安定で、夫に強く逆らうことができない。
そんなある日、マリアはバスルームの鏡に映る自分が、本人とは異なる動きをしていることに気づく。
鏡の中の少女は、自らを「アイラム」と名乗った。
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【承】
アイラムは、内気なマリアとは正反対だった。
自信に満ち、堂々としていて、マリアの悲しみを理解し、傷つけてくる者たちへ反撃すべきだと語りかけてくる。
やがて父ダンは、マリアへの誕生日プレゼントとして、自分のクリニックで美容整形を受けさせようとする。
父親が娘本人ではなく、修正すべき外見しか見ていなかったことに、マリアは深く傷つく。
さらにリリーとのスケート練習では、転倒したマリアが立ち上がれずにいるにもかかわらず、リリーは彼女を嘲笑して置き去りにする。
ダンスパーティーでは、マークから大勢の前で暴力と侮辱を受け、マリアの心はついに限界を迎える。
マリアは鏡の前でアイラムと手のひらと唇を重ね、自分の身体を明け渡した。
こうしてアイラムが現実世界へ出て、マリアは鏡の中へ閉じ込められる。
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【転】
マリアの身体を得たアイラムは、学校でも家庭でも別人のように振る舞い始める。
堂々とマークへ反撃し、父ダンの不倫を母エイミーへ突きつけ、家族が守ってきた表面的な平穏を壊していく。
アイラムはマークをシャワールームへ誘い込み、膝を破壊して激しく殴打する。
続いてリリーとのスケート練習では、彼女を追い詰めた末、転倒による死へ追いやった。
鏡の中のマリアは恐怖し、身体を返すよう求める。しかしアイラムは、マリア自身も心の奥では彼らがいなくなることを望んでいたはずだと指摘する。
その後、アイラムはショーンを誘惑し、彼との関係を楽しみ始める。
ところが、リリーの死を捜査する警察が自分たちを探していると知ったショーンが、アイラムの態度を不審に思い、モーテルから出ようとする。
追い詰められたアイラムは、計画的に口を封じるのではなく、恐怖と衝動からショーンを瓶で殴り殺してしまう。
自信に満ちていたアイラムは崩れ、鏡越しにマリアとともに泣く。
そして物語の真相が明かされる。
マリアには、生まれたとき双子の姉妹がいた。
しかし父ダンは、身体に異常があると判断した赤ん坊を受け入れず、母親の反対を押し切って雪の降る屋外へ捨て、死なせていた。
その捨てられた娘こそが、アイラムだった。
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【結】
アイラムは父ダンのクリニックを訪れる。
酔ったふりをしながら服を脱ぎ、自分の身体が醜く変形していたとしても愛せるかと問いかける。
父親が「愛する」と答えると、アイラムはメスで父の喉を切り裂いた。
死にゆく父親を前に、アイラムは泣きながら問いかける。
なぜ、自分のことは愛してくれなかったのか――。
復讐を終えたアイラムが鏡を見ると、そこにはもうマリアの姿がない。
突然、一人になったことに怯えたアイラムは自宅へ戻り、母エイミーのベッドへ潜り込む。
母親は娘を抱きしめる。
映像では、エイミーの左右にマリアとアイラムが横たわる鏡写しの姿が映し出され、二人が一つの身体の中で重なり合ったことが示唆される。
生まれたときに抱かれることのなかったアイラムと、ずっと正しく見てもらえなかったマリア。
二人の娘は、最後にようやく母親の腕の中へ帰るのだった。
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③【考察・感想・まとめ】
古い題材を、かなり洗練して見せた作品
『ガール・イン・ザ・ミラー』、普通に面白かった。
鏡の中のもう一人の自分、双子の片割れ、身体の乗っ取り、復讐劇という素材自体には、それほど新鮮さはない。
とくに日本のホラーでは、生まれなかった、捨てられた、あるいは存在を隠された双子の片割れが、生き残った姉妹へ干渉したり、身体を奪ったりする話は昔から珍しくない。
だから新しい作品かといわれると、決してそうではない。
ただし、昔からある手法をかなり丁寧に磨き、映像、人物造形、家族の悲劇として洗練していたと思う。
単なる「鏡の中の悪い人格が出てきて復讐する話」では終わっていない。
この作品は、表向きにはマリアの物語として始まるけれど、実際にはアイラムの悲劇を描いた物語だった。
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MARIAとAIRAM――名前まで鏡写し
マリアは「MARIA」。
アイラムは「AIRAM」。
文字を逆から読めば、そのまま互いの名前になる。
二人は双子であると同時に、存在そのものが鏡写しになっている。
マリアは生きているけれど、自分の意志を表に出せない。
アイラムは死んでいるけれど、強烈な生への欲求を持っている。
マリアは身体を持っているのに行動できず、アイラムは身体を得た途端、抑制なく行動する。
マリアは傷つけられても耐え続ける。
アイラムは傷つけられる前に、相手を傷つける。
撮影も、この鏡写しという構造を徹底していた。
実際に鏡が映っている場面だけでなく、人物の立ち位置、画面の左右、姿勢や構図まで、対称と反転を意識して作られている。
最後に母親を中央として、その左右へマリアとアイラムが横たわる画も、二人が本来は同時に母親から愛されるはずだった姉妹であることを、非常に美しく表現していた。
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アイラムは、万能な悪霊ではない
この作品で特に良かったのは、アイラムを何でもできる万能な怨霊にしなかったところ。
アイラムはマリアを妬み、その人生を奪いたかったわけではない。
ただ生きたかった。
見てほしかった。
愛されたかった。
それだけなんだよね。
マリアの身体を得たアイラムは、自信に満ちた女性として振る舞い、いじめてきた相手に復讐し、欲しかった男性を誘惑し、家族の欺瞞も暴いていく。
一見すると大胆不敵で、何でも計算どおりに進める悪女のように見える。
しかし実際のアイラムは、生まれてすぐ捨てられ、成長する時間を与えられなかった子供の霊でしかない。
身体は17歳のマリア。
振る舞いは大人びている。
しかし心は、愛されないまま取り残された幼い子供のまま。
だから復讐にも、きちんとした計画性がない。
マークやリリーまでは、ある程度自分の意志で追い詰めていた。
しかしショーンが警察の話を持ち出し、自分の思いどおりに動かなくなると、急に怯え、衝動的に殺してしまう。
そこからアイラムの堂々とした仮面が崩れ始める。
父親が指摘した、
「大胆不敵に見せて、ただの子供だ」
という言葉が、ここで非常に効いてくる。
父親は最低の人間だけれど、この一言だけはアイラムの本質を正確に見抜いていた。
アイラムの強さ、妖しさ、自信は、成熟した人格から生まれたものではない。
鏡の向こう側から人間を見続け、強い人間の振る舞いを覚え、それを真似していただけだった。
だから予定外の事態が起きた瞬間、大人の仮面が剥がれ、捨てられた子供へ戻ってしまう。
この設計はかなり良かった。
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愛がなかったのではない。愛し方が壊れていた
この家族は、最初から完全に破綻している。
しかし、単純に愛情のない家族として描かれていないところが、また悲しい。
父親にも、おそらく家族を愛しているという自覚はあったのだろう。
ただし、父親が愛していたのは、妻や娘本人ではなく、自分の理想どおりに整えられた家族像だった。
美容整形外科医という職業も、人物造形と強く結びついている。
彼にとって外見の欠点は、受け入れるものではなく修正するもの。
修正できないものは、隠すもの。
それでも都合が悪ければ、最初から存在しなかったことにする。
だからマリアの容姿にも平気で手を加えようとし、身体に異常があると判断したアイラムは、生まれた直後に捨てた。
どういう角度で見ても、あの父親は最低である。
その一方で、母親エイミーの愛情は本物だった。
彼女は妊娠中から、どんな子供であっても愛すると言っていた。
そして捨てられたアイラムを見て、本当に悲しみ、長年悪夢に苦しみ続けていた。
もちろん、母親にも責任はある。
夫の支配を止められず、家庭の異常から目を背け、マリアを守りきれなかった。
愛してはいたけれど、行動できなかった。
父親の積極的な加害と、母親の消極的な黙認。
その二つの間で、生き残った娘は自分を抑圧するマリアになり、捨てられた娘は衝動だけで動くアイラムになった。
つまりアイラムの出現は、家庭崩壊の原因ではない。
夫婦が長年隠してきた歪みが、鏡の中から形を持って現れただけ。
この家族は、双子が生まれた瞬間に壊れたのではない。
父親が妻や子供を自分の理想に従わせ、母親がそれへ抵抗できない夫婦関係を作った時点で、すでに破滅の構造は始まっていたのだと思う。
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母親だけが、アイラムの復讐対象ではなかった
アイラムは、自分やマリアを傷つけた人物へ次々と復讐していく。
いじめてきたマーク。
裏切ったリリー。
自分から離れようとしたショーン。
そして、自分の存在を否定し、命を奪った父親。
しかし母親には危害を加えない。
母親だけは、生まれる前からアイラムを愛していたから。
父親を殺し、マリアの姿も鏡から消え、自分の行き場が完全になくなったとき、アイラムが向かったのは母親のもとだった。
あれは勝利した復讐者の帰還ではない。
母親に抱いてもらいたくて家へ帰った、ただの子供の行動なんだよね。
母親は、アイラムだけを抱きしめたのではない。
その身体の中にいるマリアも同時に抱きしめた。
生まれたときに捨てられた娘と、生きていながら正しく見てもらえなかった娘。
二人が最後に母親の腕の中へ戻る。
感情的な結末としては、非常にきれいだった。
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しかし、物語の結末としては一手足りない
この作品で一番惜しかったのが、やはりラスト。
母親の抱擁によって、アイラムの感情には着地点ができた。
母親の愛情が本物だったことも確認できた。
マリアとアイラムの二人が、ようやく娘として認められたことも伝わる。
でも、その先にある現実が描かれない。
そこがどうしてもモヤモヤする。
人が何人も死んでいる。
リリーの死について警察はすでに捜査を始め、ショーンも殺されている。
父親までクリニックで喉を切られている。
マリアへ身体を返したとしても、警察から見れば犯人はマリアだ。
アイラムが身体を使い続けたとしても同じ。
アイラムは万能な霊ではなく、現実社会の仕組みも理解できていない幼い子供でしかないため、警察から逃げ続けられるはずもない。
つまり、どちらが身体の主導権を握っていても、彼女たちに未来はない。
マリアには本来、生ある人生があった。
しかしアイラムがその身体で復讐したことで、マリアの人生まで破壊されてしまった。
アイラムは自分を愛してくれなかった者たちへ復讐したかっただけで、復讐後にマリアがどうなるのかまでは考えられなかった。
それもまた、アイラムが子供である証拠なんだよね。
姉妹は互いを救うどころか、最後には二人そろって破滅するしかない。
そこまで描いてこそ、姉妹、父子、母子、夫婦、家庭、そのすべてが最初から歪んでいた末路として完成したと思う。
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必要だったのは、サイレン音と赤色灯だけ
別に逮捕や裁判まで描く必要はない。
母親が二人の娘を抱きしめる。
そのまま遠くから警察のサイレンが聞こえてくる。
窓から赤色灯の光が、断続的に室内へ差し込む。
それだけでよかった。
本当に、あと数秒でいい。
その数秒があれば、
「母親の愛は本物だった」
「アイラムは最後に、ずっと欲しかった抱擁を得た」
「しかし、その愛はあまりにも遅く、二人の人生を救うことはできなかった」
という三つが同時に成立した。
愛は間に合った。
けれど、救済は間に合わなかった。
そういう悲しい物語として、作品全体が一本につながったはず。
現状の結末は、悲劇が最も美しく見える瞬間で映画を止めてしまっている。
だから観客の中には、「このあとどうなるの?」という実務的な疑問が残る。
本来なら、鑑賞後に持ち帰るべきなのは、
「愛されなかった子供と、愛されているのに守られなかった子供が、歪んだ家庭の末に二人とも人生を失った、悲しい物語だった」
という一本の感想だったと思う。
ところが現実の着地点を示さなかったため、悲しみよりも先に未処理感が残ってしまう。
映画を多く観ている人なら、こうして自分で先を考え、脳内で補完し、「一手足りなかったけれど、よくできた作品だった」と整理できる。
しかし映画をその場限りの娯楽として観る人にとっては、あのモヤモヤをうまく消化できない可能性がある。
結末が曖昧なのと、物語の後処理が足りないのは違う。
本当に惜しい。
ラスト数秒さえ整っていれば、私の中での全体評価はかなり上がっていた。
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雪の中へ赤ん坊を捨てる処理は、さすがに無理がある
もう一つ気になったのは、父親が生まれたばかりのアイラムを、雪の降る屋外へ捨てていたこと。
あれは象徴的な絵としては強い。
白い雪の中に置かれる赤ん坊は、捨てられた命、冷たい父親、失われた人生を一発で伝えられる。
ただし、現実的な処理として考えると、さすがに雑である。
出産した双子の一人を病院や周囲の人間へどう説明したのか。
遺体が発見されれば警察沙汰になる。
まして父親は社会的地位と体面を重んじる医師である。
そんな人物が、証拠の残りやすい方法で赤ん坊を屋外へ放置するだろうか。
人物像から考えれば、もっと医療的、事務的に、アイラムを「最初から存在しなかったこと」にするほうが自然だった。
あの場面は現実的な回想というより、アイラムの原初の記憶や、作品のゴシックな悲劇性を象徴するイメージとして受け取ったほうが収まりはいい。
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インディア・アイズリーが、とにかく強い
この映画の最大の成功要因は、間違いなくインディア・アイズリー。
とにかく画面が強い。
長い手足、小さな頭部、整った等身バランス、左右対称に近い顔立ち、大きな目。
そこへアイラムになったあとの濃いアイメイクが加わり、目力が一気に上がる。
彼女が画面の中央に立つだけで、映像がガツンと強くなる。
鏡、左右対称、反転という演出を多用する作品だからこそ、インディア・アイズリーの造形が非常によく映えていた。
単に美しい女優を起用したという話ではない。
マリアとアイラムを演じ分けるために、顔だけでなく、身体全体の使い方を変えている。
マリアは視線を落とし、肩を縮め、相手の反応を確認してから動く。
身体が常に内側へ閉じている。
アイラムになると、顎を上げ、相手の目を正面から見て、空間を自分のものとして歩く。
誘惑する場面でも、単に肌を見せたり表情を作ったりするのではなく、相手が自分に惹かれていると確信している人物の視線と間がある。
さらに終盤では、その自信に満ちたアイラムが、予定外の事態に怯え、子供のように崩れていく。
つまり演技が、
内気で怯えたマリア。
自信に満ち、妖しい魅力を振りまくアイラム。
大人の仮面が剥がれ、幼い子供へ戻るアイラム。
この三段階で変化している。
同じ顔、同じ身体なのに、立ち方、歩き方、視線、呼吸、間の取り方だけで、人物の年齢感まで変えてみせた。
脱衣や誘惑を含む身体性の強い場面も多く、かなり身体を張っていたと思う。
年齢以上の妖しい艶を見せながら、その妖艶さが崩れた瞬間には、捨てられた子供の幼さまで見せる。
キャスティングと演技については、かなり高い評価をつけたい。
おそらくインディア・アイズリーでなければ、この映画は同じ水準では成立しなかった。
脚本や映像が彼女を活かし、彼女も作品の要求へ完璧に応えた。
あそこまで一人の女優を最大限に活用できていた設計だったからこそ、結末の一手不足が余計に惜しく感じる。
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原題『LOOK AWAY』は、家族全員へ向けられた言葉
原題は『LOOK AWAY』。
「目を背ける」という意味である。
父親は、受け入れられない姿で生まれたアイラムから目を背けた。
母親は、夫の支配と家庭の歪みから目を背けた。
学校の人間たちは、マリアが傷ついていることを見ようとしなかった。
マリア自身も、自分の中にある怒り、欲望、憎しみから目を背けていた。
家族も学校も、見たくないものを見ないことで日常を維持していた。
しかし鏡だけは、ずっとマリアを見ていた。
そして鏡の中にいたアイラムも、誰かに自分を見てほしいと願い続けていた。
そう考えると、原題はかなり作品の本質を表している。
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邦題は悪くないが、あまりにも平凡
『ガール・イン・ザ・ミラー』という邦題は、内容を壊してはいない。
鏡の中に少女がいる映画なので、間違ってもいない。
ただし、あまりにも普通。
題名だけを見ると、鏡から女の霊が出てくる、よくある洋画ホラーの一本にしか見えない。
この作品には、MARIAとAIRAMという名前の反転、姉妹の鏡像関係、どちらが本当の「私」なのかという問いがある。
それらを活かすなら、
『アイラム―鏡の中のわたし―』
くらい踏み込んだ邦題でもよかったと思う。
「アイラムとは誰なのか」
「鏡の中にいるのはアイラムなのか、私なのか」
「最終的に身体の中の私は、マリアなのかアイラムなのか」
鑑賞前には意味がわからず、鑑賞後にAIRAMとMARIAの仕掛けへ気づき、題名まで鏡写しになる。
ひらがなの「わたし」には、アイラムの幼さもにじむ。
日本らしい少し耽美な題名でありながら、作品の核心も壊さず、観客へのミスリードとしても機能したはず。
日本の邦題は、今も古い販売テンプレに頼りすぎている。
「鏡の中の女」「消えた少女」「呪われた家」「戦慄の真実」といった説明的な題名や副題を付け、作品ごとの個性を消してしまう。
その結果、観客が違うジャンルを期待し、「思っていたのと違った」と作品そのものを低く評価することさえある。
それでは配給側が、作品と相性の悪い観客を呼び込み、本来その映画を好むはずだった観客を遠ざけているだけ。
劇場の興行収入だけでなく、円盤の売上やサブスクでの視聴にも影響する問題だと思う。
『ガール・イン・ザ・ミラー』は、ぶっ壊れた邦題というほどではない。
ただ、作品を一段浅く、安価に見せてしまっている。
本編もラストで一手足りず、邦題もまた一手足りない。
何とも惜しさの重なる作品だった。
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【総合評価】
題材そのものに新鮮さはない。
鏡、双子、身体の交代、復讐という、昔からあるホラーの型を使った作品である。
それでも、アイラムを万能な悪霊ではなく、愛されることも成長することもできなかった子供として描いた人物設計は良かった。
マリアとアイラムの名前を反転させ、映像全体を鏡写しの構造で統一した演出も見事。
愛が存在しないのではなく、愛し方が歪み、届かず、すべてが手遅れになってしまった家族像も味わい深い。
そして何より、インディア・アイズリーの容姿、存在感、身体表現、三段階に変化する演技が非常に強かった。
結末だけは明確に物足りない。
あと数秒、サイレンの音と赤色灯さえあれば、一家の破滅を描いた救いのない悲劇として完璧に着地できた。
そこを取りこぼしたため、傑作へは届かなかったと思う。
それでも、結末以前の設計と完成度は高く、総合評価としては十分に高水準。
新鮮さはないが、古典的な題材を丁寧に磨き、一人の女優を完璧に活かして作り上げた、よくできた鏡像ホラー兼家族悲劇。
非常に惜しい。
しかし、一手足りなかったというマイナス面まで含めたうえで、それでも高く評価できる作品だった。
ホラー館はコチラ↓
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