『マザー!』の個人的な感想・考察

 『マザー!』の個人的な感想・考察


①『マザー!』(2017年/アメリカ/監督:ダーレン・アロノフスキー)


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②あらすじ【起承転結・完全ネタバレ】

【起】

人里離れた一軒家で暮らす、詩人の夫と若い妻。

かつて火災によって焼け落ちたその家を、妻はたった一人で修復していた。壁を塗り、床を整え、荒廃した屋敷を再び二人の住まいとして蘇らせようとしている。

一方の夫は、かつて高く評価された詩人でありながら、現在は深刻なスランプに陥っていた。書斎にこもっても言葉は出てこず、妻はそんな夫を献身的に支えながら、静かで穏やかな生活を築こうとしている。

しかし、ある夜、見知らぬ男が屋敷を訪ねてくる。

男はこの家を宿泊施設だと勘違いしたと言うが、夫は妻に相談することもなく、彼を泊めることを決めてしまう。妻は不安と違和感を覚えるものの、夫は久しぶりの客を喜び、男を歓迎する。

その夜、男は激しく咳き込み、妻は彼の脇腹に奇妙な傷があるのを目撃する。

翌日、今度は男の妻が現れる。

遠慮というものを知らないその女は、家の中を勝手に歩き回り、妻の私生活や夫婦関係に踏み込み、子どもを作らないのかと無神経に問い詰める。

さらに二人は、夫が書斎で大切に保管していた美しい結晶に触れ、それを割ってしまう。

夫は激怒し、書斎を封鎖する。

妻は二人を追い出してほしいと訴えるが、夫ははっきり拒絶しない。自分の家であるはずなのに、妻の意思は最初から無視され続ける。

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【承】

やがて、訪問者夫婦の二人の息子が屋敷へ押しかけてくる。

兄弟は父親の遺産をめぐって争い始め、ついには兄が弟の頭を殴りつける。弟は大量の血を流し、病院へ運ばれた末に死亡する。

床板に染み込んだ血は、まるで生きているかのように家の内部へ広がっていく。妻が床を剥がすと、そこには臓器のように脈打つ赤黒い空間が現れる。

その日の夜、亡くなった息子を悼むため、大勢の親族や知人が屋敷へ集まってくる。

ところが彼らは、悲しみに暮れる遺族というより、他人の家へ押しかけた無法者だった。

勝手に酒を飲み、家具を動かし、寝室へ入り、壁を塗り替え、家財を持ち去ろうとする。妻が何度注意しても、誰一人として彼女の言葉を聞かない。

なかでも客たちは、まだ壁に固定されていない流し台へ何度も腰掛ける。

妻は繰り返し「そこに座らないで」と訴えるが、彼らは笑って無視する。ついに流し台が崩れ落ち、水道管から大量の水が噴き出したことで、妻は客たちを家から追い出す。

妻は、夫が自分より見知らぬ他人を優先し続けることに激怒する。

激しい口論の末、二人は関係を持ち、妻はその直後、自分が妊娠したことを確信する。

妻の妊娠を知った夫は、突如として創作意欲を取り戻す。

長く続いていたスランプを脱し、まるで何かに取り憑かれたように、一気に新しい詩を書き上げる。

妻がその詩を読むと、荒廃した世界に新たな生命が芽吹く光景を幻視し、感動して涙を流す。

夫の作品は出版され、瞬く間に完売する。

夫は再び世間から称賛される詩人となった。

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【転】

臨月を迎えた妻は、夫の成功を祝うため、二人きりの夕食を用意する。

しかし食事を始めようとしたそのとき、玄関の外に夫の読者が現れる。

最初は数人だったファンが、瞬く間に数十人、数百人へと膨れ上がり、屋敷の中へ押し寄せてくる。

人々は夫を神のように崇拝し、彼の言葉をありがたがり、身体に触れ、祝福を求める。

夫もまた、その称賛を拒もうとはしない。

妻が必死に客を止めようとしている間にも、人々は家財を記念品として持ち去り始める。椅子を壊し、壁を剥がし、部屋を占拠し、勝手な規則を作り、「これはみんなの家だ」と主張する。

屋敷の中では、いつしか宗教儀式が始まり、夫の詩をめぐる派閥が生まれ、争いが起こる。

略奪、暴行、売買、処刑、暴動、銃撃戦、爆発。

警察や軍隊まで現れ、一軒の家だったはずの空間は、戦争と宗教狂信と人類史の惨劇を圧縮した地獄へと変貌していく。

夫の出版担当者は、拘束された人々を次々と処刑している。

妻は逃げ惑いながら夫を探すが、誰も彼女を助けない。それどころか、彼女自身も群衆に殴られ、蹴られ、押し潰されていく。

その混乱のなかで妻は産気づき、夫に連れられて書斎へ逃げ込む。

妻はそこで男の子を出産する。

夫は、赤ん坊を外で待つ人々に見せたがる。しかし妻は、あの群衆に我が子を渡せるはずがないと拒絶する。

妻は赤ん坊を抱き続け、眠ることさえ拒み、夫を警戒する。

だが極度の疲労によって、ほんの一瞬だけ眠りに落ちてしまう。

目を覚ますと、腕の中に赤ん坊はいなかった。

夫が我が子を群衆へ渡していた。

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【結】

人々は赤ん坊を頭上に掲げ、歓声を上げながら、次々と隣の者へ手渡していく。

しかし乱暴に扱われた赤ん坊の首が折れる。

我が子を奪われた妻が群衆をかき分けて進むと、赤ん坊の遺体は祭壇の上に置かれ、その肉を人々が切り分けて食べていた。

妻は絶叫し、怒りのまま群衆へ襲いかかる。

しかし人々は逆に妻を床へ引き倒し、殴り、蹴り、服を引き裂き、「子どもを殺した女だ」と罵倒する。

そこへ夫が現れ、妻を助け出す。

だが夫は、我が子を殺して食べた人々について、彼らを赦さなければならないと言う。

家を奪われ、身体を傷つけられ、子どもまで殺された妻にとって、その言葉は到底受け入れられるものではなかった。

妻は地下室へ逃げ込み、燃料タンクを破壊する。

夫が止めようとするなか、妻は火を放つ。

屋敷は炎に包まれ、人々も、妻自身も焼き尽くされる。

しかし夫だけは無傷で生き残っていた。

全身を焼かれ、瀕死となった妻を抱きかかえた夫は、それでもまだ自分を愛しているかと尋ねる。

妻は、愛していると答える。

夫は「君にはまだ与えられるものが残っている」と言い、妻の胸を裂いて心臓を取り出す。

黒く焼け焦げた心臓を握り潰すと、その中から美しい結晶が現れる。

夫がその結晶を書斎の台座へ置くと、焼け落ちた屋敷は再び元の姿へ戻っていく。

そしてベッドの上では、これまでとは別の女性が目を覚ます。

また、新しい世界が始まる。

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③考察・感想・まとめ

現実の物語として見たら、そりゃ意味がわからない

ぶっちゃけ、初見ではまったく意味がわからなかった。

見知らぬ他人が勝手に家へ入ってきて、夫はなぜか追い出さない。訪問者は際限なく増え、殺人が起き、葬式が始まり、家財が盗まれ、気づけば軍隊が突入して戦争になり、最後には赤ん坊が殺されて食べられる。

現実の物語として因果関係を追えば、カオスにしか見えない。

しかし、それは当然だった。

この作品は、現実に暮らす一組の夫婦を描いた物語ではない。登場人物も、屋敷も、出来事も、ほぼすべてが何か別のものを表すための記号として配置されている。

妻はMother、すなわち母なる大地。

夫は創造主である神。

屋敷は地球であり、世界であり、同時にMother自身の身体。

最初に現れる男はアダム。その脇腹の傷から現れる女はイブ。

夫が大切にしていた結晶は禁断の果実であり、前のMotherから取り出された心臓でもある。

二人の息子はカインとアベル。兄による弟殺しは、人類最初の殺人。

葬儀の客によって壊された流し台から水が噴き出し、人々が追い出される場面はノアの洪水。

妻が産む赤ん坊はキリスト。

群衆が赤ん坊の肉を食べる場面は、キリストの身体と血をパンとワインとして受け取る聖餐を、文字どおりの食人として映像化したものだった。

それぞれの配役と聖書の引用さえ分かれば、何を描いているのかは意外なほど分かりやすい。

つまりこれは、聖書と人類史を一軒の家に圧縮し、母なる大地の側から見直した作品だった。

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Motherの視点から見た神と聖書と人類

この映画の特徴は、聖書を神や人類の側からではなく、そこで何度も踏みにじられる大地の側から描いたことにある。

聖書において神が人類を愛し、何度過ちを犯しても赦すことは、慈悲深さとして語られる。

しかし、その慈悲をMother側から見ると、話はまるで違ってくる。

人間を家へ招き入れたのは夫だ。

妻が不安を訴えても無視し、家を壊されても追い出さず、自分を称賛する人々を喜んで受け入れる。

妻が何度「やめて」「触らないで」「出ていって」と訴えても、夫は人間たちを守り続ける。

そして家を破壊し、妻を殴り、子どもを殺して食べた人間さえも、夫は赦そうとする。

だが、実際に被害を受けたのは夫ではない。

壊されたのは妻が修復してきた家。

傷つけられたのは妻の身体。

奪われ、殺されたのは妻の子ども。

何も失っていない夫が、被害者である妻を差し置いて「彼らを赦さなければならない」と言う。

Motherからすれば、これほど理不尽な話はない。

神の無限の慈悲は、神自身の犠牲によって成立しているのではない。

Motherの家、身体、労働、子ども、命を勝手に差し出すことで成立している。

神は他者に代償を払わせながら、自分だけは慈悲深い存在であり続ける。

この作品は、神と人類の美しい愛の物語として語られてきた聖書を、その陰で一方的に犠牲となる大地から見直し、完全に反転させた作品なのだと思う。

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結局、一番の悪者は神ではないのか

過程だけを見れば、人類は明確な加害者だ。

勝手に家へ入り、所有し、奪い、壊し、争い、殺し、最後には救いの象徴である赤ん坊まで消費する。

大地から見れば、人類は紛れもなく害悪だろう。

しかし、「この悪循環を作っているのは誰か」と一段上から見れば、最終的には神へ行き着く。

人類を作ったのは神。

家へ招き入れたのも神。

人類が増長するのを許したのも神。

破壊を止めなかったのも神。

Motherを守らず、人類を赦したのも神。

世界が滅びたあと、また同じ世界を作り直したのも神。

夫には、いくらでも別の選択肢があった。

最初の男を家へ入れないこともできた。

妻が嫌がった時点で追い出すこともできた。

人々が家を壊し始めた段階で止めることもできた。

自分への崇拝を拒絶することもできた。

赤ん坊を群衆へ渡さないこともできた。

何より、一度世界が滅びた時点で、同じ創造を繰り返さないという選択もできた。

それでも夫は、毎回同じ初手を打つ。

人類が過ちを繰り返しているだけではない。

神が、過ちを犯す人類と、その被害を受けるMotherを何度でも配置し直し、悪循環そのものを再起動している。

しかも、夫が人類を愛しているのは、純粋に生命を慈しんでいるからだけには見えない。

彼は、自分の詩を読まれ、称賛され、身体に触れられ、神のように崇められることを喜んでいる。

人類を愛しているというより、人類から愛される自分を愛している。

そう考えると、この循環の根にあるのは、人類の愚かさ以上に神の自己愛なのではないかと思う。

実行犯は人類。

被害者はMother。

しかし、その構造を作り、維持し、何度でも再起動させる責任者は神。

一口に「誰が悪いのか」と問うならば、結局は神ではないか。

この作品は、環境破壊への警告である以上に、かなり強烈な神批判として見えた。

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聖書の神を、そのまま再現した作品ではない

もっとも、聖書に記された神が、そのままあの夫のような自己愛だけでできた存在なのかといえば、そういうわけではない。

キリスト教における神は、慈愛、正義、赦し、忍耐を備えた完全な存在として信仰されている。

一方で聖書には、自分以外の神への信仰を許さない「嫉妬する神」、人類を創造したことを悔やむ神、洪水によって生命を滅ぼす神、信仰を試す神という、現代人から見るとかなり人間臭く、苛烈な姿も記されている。

信仰者は、それを人間的な独占欲や癇癪とは解釈しない。

神の嫉妬は契約への忠実さであり、怒りは悪に対する正当な裁きであり、人類を何度も赦すことは無限の愛だと解釈する。

だが、この映画はそれをMotherの側から最悪の方向へ読み替えた。

「人間を何度でも赦す慈悲深い神」を、「妻がどれだけ犠牲になっても、自分を崇拝する人間を手放せない自己愛的な神」へ反転させている。

これは聖書の神を忠実に再現したものではない。

監督が聖書の中から見いだした、一つの批判的解釈だ。

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宗教の解釈に、絶対的な一つの正解はない

私はキリスト教徒ではないため、この作品による聖書の扱いに、宗教的な感情移入も反発もなかった。

そもそも宗教というものは、同じ聖典を読んでいても、読み手や時代、共同体によって解釈が変わる。

言い方を変えれば、人は自分たちに都合の良いように聖典を解釈する。

だからこそ数多くの宗派が存在する。

もちろん、ある宗派にとっては他の解釈が間違いに見えるだろう。しかし、どの解釈だけが絶対に正しく、他は許されないと言い始めれば、その先にあるのは宗教対立であり、最悪の場合は戦争だ。

宗教の自由と、私個人が無宗教であるというフェアな立場から見れば、監督が神をあのように解釈したこと自体に善悪はない。

信仰者が冒涜的だと感じる自由はある。

同時に監督にも、聖書を批判的に読み、自分が見いだした神の姿を映像化する自由がある。

厳密には宗教でも宗派でもないが、監督が提示した独自の聖書解釈を、一つの新しい宗教思想、あるいは信者を持たない個人的な神学と見ることもできるかもしれない。

新しい宗派が生まれるときには、しばしば既存の聖典に対する新しい解釈がある。

この映画も、聖書をMotherの立場から読み直した結果として生まれた、一つの異端的な解釈なのだろう。

それを受け入れるか、拒絶するかは、見る側に委ねられている。

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ここまで神を批判し、観客を置き去りにした監督の覚悟

それにしても、監督はものすごい勝負に出たと思う。

世界最大級の宗教であるキリスト教を土台にしながら、神を慈愛に満ちた創造主ではなく、妻と大地を使い潰し、自分への崇拝を求め続ける自己愛的な存在として描いた。

キリストを象徴する赤ん坊の首を折り、その肉を人々に食べさせ、聖餐を文字どおりの食人へ置き換えた。

宗教が広まる過程を、崇拝、制度化、派閥争い、処刑、戦争へと一気につなげた。

信仰者から冒涜的だと批判されることは、容易に想像できたはずだ。

さらに、一般観客に対してもほとんど説明しない。

前半は不審な訪問者が現れるホームインベージョン系のスリラーに見せかけ、途中から現実的な因果関係を崩し、終盤には人類史全体を一軒の家へ流し込む。

聖書の知識がない観客に、登場人物の正体を推測できるだけの手掛かりを十分に渡しているとも言い難い。

宗教的な反発だけでなく、「意味がわからない」「不快なだけだ」「観客を置いてけぼりにしている」と酷評される危険まで、監督は当然分かっていただろう。

それでも、分かりやすい説明を足さず、自分が描きたいものを最後まで押し通した。

万人に理解されることよりも、自分の怒りと思想を純度の高い映像として完成させることを選んだ。

その覚悟と信念は、作品から強く伝わってくる。

好きか嫌いかとは別に、よくここまで妥協せず作ったものだと思う。

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設計を知れば、驚くほど綺麗に整っている

作品の設計自体は、間違いなく高度だ。

アダムとイブ、禁断の果実、カインとアベル、ノアの洪水、キリストの誕生、受難、聖餐、宗教の拡大、戦争、黙示録、世界の再創造。

聖書と人類史の主要な要素が、一軒の家で起きる出来事として途切れることなく配置されている。

さらに、その骨組みに母なる大地と環境破壊、芸術家と妻、創作者とミューズ、著名人とファン、宗教と権力まで重ねている。

夫は神であると同時に、妻の愛情、家事、身体、妊娠、苦痛を創作の燃料として使う男性芸術家でもある。

人々は信者であると同時に、作品を消費し、作者へ群がり、私物を奪い、勝手な解釈で争い始めるファンでもある。

Motherは母なる地球であると同時に、夫の創作活動を陰で支え、生活も身体も精神も使い潰される妻でもある。

一つの人物や出来事に複数の意味を重ねながら、全体として破綻させていない。

設計図を理解したあとで振り返れば、最初から最後まで驚くほど綺麗につながっている。

よくここまで練り上げ、これほど巨大な思想を一本の映画へ収めたものだと感心する。

映像作品としての完成度と表現力は、間違いなく高い。

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ただし、観客ありきの映画としては間口が狭すぎる

一方で、映画は観客に見せることを前提とした表現でもある。

どれだけ設計が緻密でも、作品の鍵を外部の解説に頼らなければ大部分の観客が読み解けないのであれば、伝達の設計としてどうなのかという疑問は残る。

もう少し夫の神性を匂わせる。

物語の節目ごとに創世記や洪水、受難へ移行したことを示す。

屋敷が妻の身体であり、同時に世界そのものであることを、もう少し早い段階で伝える。

そうした別の表現はいくらでもあったはずだ。

ただし、分かりやすくすれば、この作品特有の悪夢的な体験は弱くなっただろう。

観客は妻と同じように、何が起きているのか理解できないまま侵入者に囲まれ、家を奪われ、世界が崩壊していく。

理解よりも体感を優先し、説明を削ぎ落としたからこそ、あの息苦しさと狂気が成立している。

つまり、分かりにくさは単なる設計不足ではなく、監督が意図して選んだ表現でもある。

伝達性を高めれば、作品の純度が落ちる。

純度を守れば、観客の多くを振り落とす。

監督は後者を選んだ。

創作というものは、必ずしも万人へ分かりやすく届けるためだけに存在するわけではない。

観客を置き去りにしながら、それでも表現の独自性によって映画史に残る作品は確かにある。

『マザー!』も、その類いの作品なのだろう。

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完成度は高い。しかし、自分には刺さらなかった

細かな意味を知り、作品の構造はきちんと理解できた。

完成度は間違いなく高い。

表現としても秀逸で、よくここまで練り上げたと思う。

監督が批判されることを承知のうえで、自分の描きたいものを妥協せず映像化した覚悟も伝わってきた。

刺さる人には、めちゃくちゃ刺さる作品だろう。

神、聖書、宗教、人類、環境、創作、自己愛という主題に強い関心を持つ人ならば、これほど大胆で重層的な作品は滅多にない。傑作として高く評価する人がいることにも、十分納得できる。

ただ、私はキリスト教について、さらに深く掘り下げたいと思うほどの関心はない。

宗教的な問題意識に感情移入できず、Motherの苦痛や夫への怒りは理解できても、この作品の中心にある聖書の再解釈そのものが、自分の興味とは強く結びつかなかった。

そのため、作品の技術や設計は評価できても、個人的な映画体験として良い評価をつけることはできない。

これは、意味が分からなかったから低く評価するという話ではない。

意味を理解したうえで、作品が目指した場所は分かった。完成度の高さも認める。それでも、自分には刺さらなかった。

映画としてよくできていることと、自分にとって面白いことは別だ。

傑作と呼ぶ人の気持ちは分かる。

しかし、自分にとっての傑作ではない。

非常によく練られた、熱量と覚悟のある尖った映像作品。完成度は高く、表現も秀逸。ただし、その間口は極端に狭く、私には刺さらなかった。

最終的な感想は、それだけだね。


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