『テイキング・オブ・デボラ・ローガン』の個人的な感想・考察
『テイキング・オブ・デボラ・ローガン』の個人的な感想・考察
①『テイキング・オブ・デボラ・ローガン』(2014年・アメリカ・監督:アダム・ロビテル)
原題:The Taking of Deborah Logan
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②あらすじ
【起】
アルツハイマー病患者とその家族をテーマに卒業制作のドキュメンタリーを撮影するため、医学生ミアと撮影スタッフたちは、認知症を患う老女デボラ・ローガンと、その娘サラの家を訪れる。
デボラは元電話交換手。病気が進行しつつあるものの、まだ会話も成立し、プライドも知性もしっかり残っている。
一方のサラは、母の介護を続けながら経済的にも追い詰められていた。母娘関係にもどこかぎこちなさがあり、撮影を受け入れた背景にも生活上の事情がある。
序盤から良かったのは、何よりデボラ役の演技力。
アルツハイマー病による記憶障害、混乱、苛立ち、羞恥心。それだけでも「この先、この人はどうなってしまうんだろう」という緊張感がずっとある。
しかもサラも、短髪でぶっきらぼう、母との関係もどこか重たい。幼い頃から同性を好きになる自覚があったことも語られ、現在も同性の恋人がいるようで、人物造形そのものに個性がある。
事前情報なしで観た私としては、序盤では、
「この娘も何か隠してないか?」
と思わされる。
デボラだけでなくサラまで少し怪しく見えることで、まだ怪異の正体がわからない段階から緊張感が維持されていた。
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【承】
ところがデボラの行動は、次第にアルツハイマー病だけでは説明できないものへ変わっていく。
夜中に異常な場所へ移動する。
意味不明な言葉を発する。
本人が知るはずのない事柄を口にする。
身体能力まで明らかに老人のそれではなくなっていく。
ここで良かったのは、映画がかなり早い段階から、
「これは単なる認知症の症状ではない」
と観客にもわからせてくれること。
病気なのか怪異なのかを最後まで引っ張って誤魔化すのではなく、途中から明確に憑依ホラーへ舵を切る。そのためテンポが良い。
そして異常行動や意味深な言葉の一つ一つも、後から見るとちゃんと真相へつながるヒントになっている。
撮影スタッフのミアも面白い人物だった。
表面的には終始、優しく献身的。
けれど序盤では、実際にはかなり強かだ。
あくまで自分の卒業制作のために来ているのであり、デボラやサラをどこか「取材対象」として見ている。
内心では病気や介護問題もまだ他人事で、医学生としては少し危うい倫理観まで垣間見える。
ただし物語が進み、本当に危険な状況へ入ってからは、それでもサラたちを見捨てず行動する。
だから結局、
「最初は自分のためだったけど、根は悪いやつじゃないんだな」
というところへ落ち着く。
逆にカメラマンや編集担当の学生たちは、最後までわりと嫌な感じ。
そして危険を感じたところで逃げる。
でも私は、これは別に悪いと思わなかった。
むしろ現実的には正しい。
得体の知れない超常現象に遭遇して、明らかに命の危険があるなら逃げるべきだ。
ホラー映画では「逃げたやつは罰として死ぬ」みたいな展開がありがちだけど、この作品では彼らは逃げ切って生還する。
嫌な人物だから都合よく殺すのではなく、
「早く逃げたから助かった」
という因果関係になっているのは、むしろリアリティがあって良かった。
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【転】
調査を進めるうち、デボラの過去と、数十年前に起きた少女連続失踪事件がつながっていく。
事件の中心人物は小児科医ヘンリー・デシャルダン。
彼は不死を得るための儀式に取り憑かれ、少女五人を犠牲にする計画を進めていた。
すでに四人まで犠牲にし、最後の五人目として狙われていたのが、幼い頃のサラだった。
当時電話交換手だったデボラは、仕事を通じて偶然その計画を知ってしまう。
そして娘を守るためデシャルダンを殺害し、自宅の庭へ遺体を埋めた。
ところが儀式を四人分まで進めていたデシャルダンは、肉体的には死んでも完全には消滅していなかった。
言ってみれば、もう人間でも完全な化生でもない「生成り」のような状態。
遺体そのものは腐敗し、自力では動けない。
そこでデボラがアルツハイマー病によって弱ってきたところへ思念、魂、あるいは霊的な何かとして侵入し、彼女の肉体を乗っ取った。
そしてデシャルダンは、新たな五人目として少女カーラを狙う。
デボラの異常行動も、過去の事件に関する言動も、庭に埋められていた遺体への執着も、すべてここへつながってくる。
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【結】
デシャルダンに支配されたデボラはカーラを連れ出し、鉱山へ向かう。
そこで待っているのが、本作最大の衝撃映像。
人間とは思えないほど大きく口を開き、カーラの頭を呑み込もうとするデボラ。
ここまで来ると、もうアルツハイマー病との区別も明確。
完全に怪異の領域へ入っている。
しかしサラの呼びかけによってデボラ自身の意識が一時的に戻り、ミアが鎮静剤を投与。
その隙にデシャルダンの遺体を焼却することで支配を断ち切り、デボラとカーラを救出する。
かつて母デボラが娘サラを守った。
今度は娘サラが母デボラを救った。
ここだけを見れば、母娘の絆による勝利。
ところが後日。
カーラは、それまで患っていた病気から奇跡的に回復している。
テレビ取材で、
「将来の夢は?」
と尋ねられ、
「まだない」
と答えるカーラ。
そして、
「じゃあ、夢の計画を立てないとね」
という言葉のあと、カーラはカメラへ不敵な笑みを浮かべる。
どうやらデシャルダンは消滅していなかった。
私はここを、
「カーラを五人目として儀式が完成した」
とは考えない。
儀式は五人の少女を殺害して初めて完成するはず。
カーラは救出され、生きている。
ならばデシャルダンはまだ完全な不死を得ていない。
デボラという器と、自分自身の腐った遺体を失ったため、すでに霊的に接続していたカーラの身体へ一時避難したのではないか。
つまりカーラは、あくまで仮の肉体。
デシャルダンはまだ半不死、半化生の「生成り」の状態。
これからカーラの身体を使って新たな五人目を探し、少女を殺害して儀式を完成させる。
そのとき初めて、カーラの肉体そのものが完全にデシャルダンのものとなり、不死の化生として完成する。
だからこそ、
「これから計画を立てないとね」
からの、あの不敵な笑み。
あれは将来の夢ではなく、
「五人目をどうするか、これから考えないとな」
というデシャルダン側の言葉として見ると、かなりしっくりくる。
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③考察・感想・まとめ
初見だったけど、これはなかなか良かった。
フェアに映画そのものだけを評価すれば、かなりクオリティは高い作品だと思う。
演技力。
演出。
展開。
伏線。
合理性。
辻褄合わせ。
そして多少強引なところがあっても、それを勢いで押し切れるだけの力の配分。
全体通して非常にバランスが良かった。
特にデボラ役の演技は本当に強い。
病気による混乱と、そこへ別の何かが入り込んでくる異質さを段階的に変化させているから、怪異が本格化する前からずっと見ていられる。
アルツハイマー病だけではない「何か」が比較的早い段階で見えてくるので、テンポも良い。
ただし、出来が良かったからこそ、惜しいところも明確に三つある。
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まず一つ目。
実在するモナカン族を、架空の猟奇的な儀式へ結びつけてしまったこと。
これは結構危ない。
作中に登場する不死の儀式は映画上の創作なのに、モナカン族そのものは実在する先住民族。
そうなると映画を観ただけの人には、
「モナカン族には少女を生贄にするような恐ろしい儀式があった」
という誤った情報だけが残る可能性がある。
しかも2014年という比較的近代の作品。
昔のホラーでよくあった、
「謎の未開部族には恐ろしい秘術がある」
という記号を、そのまま実在する先住民族へ貼り付けてしまうのは、さすがに配慮不足。
これは三つの問題の中でも、かなり明確にNG寄りだと思う。
そもそも物語上、実在する部族である必要なんてまったくない。
架空の部族。
架空の宗教。
あるいはデシャルダン自身が古い伝承を勝手に歪曲して作り上げた儀式。
その程度の設定変更だけで完全に避けられた問題なのだから、なおさら惜しい。
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二つ目。
アルツハイマー病という特定疾患をホラーの土台にしたこと。
これも難しい。
映画自体はかなり配慮しているとは思う。
アルツハイマー病による症状と憑依による異常行動を、途中からはっきり切り分けている。
「認知症だからこんな怪物になる」
とは描いていない。
介護するサラの疲弊。
患者本人の尊厳。
家族の経済問題。
アメリカにおける医療・福祉制度の難しさ。
このへんにも一応ちゃんと触れている。
だから悪意のある映画ではないし、単純に低評価にはしたくない。
ただ、それでも題材としての危うさは残る。
認知症患者の、
健常者には理解しにくい言動。
突然の行動。
記憶や人格が変化していくように見える怖さ。
「自分の知っている家族が、知らない誰かへ変わっていく」
という介護家族側の感覚。
これと「本当に他人に乗っ取られる憑依」を組み合わせる。
ホラーとしては、ものすごく相性が良い。
だからこそ危ない。
映画側がちゃんと切り分けても、視聴者が何を持ち帰るかまでは制御できない。
とくに日本では、認知症やアルツハイマー病への偏見がまだかなり強い。
病気への理解が浅い人が観れば、
「認知症の老人は怖い」
「人格が壊れて別人になる」
「何をするかわからない」
というイメージだけが強化される可能性もある。
そして私は、ここまで医学へ寄せる必要自体がなかったと思う。
医学生によるアルツハイマー病研究ドキュメンタリー。
病態の医学的な説明。
特定疾患としてのアルツハイマー病。
この記号を全部使わなくても話は成立する。
たとえば、
認知症患者と家族を扱うセミナーに参加している学生。
認知症介護施設でボランティアをしている学生。
介護家族を取材する学生ドキュメンタリー。
これくらいでも十分。
細かい医学的説明なんてなくても、
「認知症によるものなのか?」
「本人にだけ何かが見えているのか?」
「それとも本当に何かいるのか?」
くらいでホラーは成立する。
むしろその方が、作品としてはさらにスマートだったかもしれない。
特定疾患を真正面から使った以上、それだけ扱いへの責任も重くなる。
そこまで踏み込む必要はなかったんじゃないかな、という無闇さは残った。
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そして三つ目。
結局、この映像は誰が編集したの?問題。
POV、ファウンド・フッテージとして見ると、ここは結構大きい。
基本的には学生たちが撮影しているドキュメンタリーとして進行する。
ところが途中から、
学生の手持ちカメラ。
定点カメラ。
監視カメラ。
病院の映像。
過去の資料。
回想やイメージ映像。
そして最後にはテレビ報道。
いろいろな映像が混在する。
普通の映画なら別に問題ない。
でも、
「これは誰かが撮影した記録映像ですよ」
という形式を採用するなら、
誰が素材を集めたのか。
誰が編集したのか。
なぜこの映像まで入っているのか。
という映像そのものの存在理由が必要になる。
途中までは、
「最終的にミアが卒業制作として一本にまとめたのかな?」
とも思える。
でも最後にテレビ映像まで入ってくる。
じゃあこれは誰が完成させた映像なんだ?
報道側?
ミア?
事件後に誰かが全部回収して再編集した?
そこが最後までわからない。
作品としての怖さを優先して、ファウンド・フッテージという形式上の整合性を少し投げてしまったように見える。
ラストに一枚、
「事件後、ミア○○によって編集された記録映像である」
くらい入れるだけでも、かなり違ったと思う。
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それでも総合的には、よく出来たホラー。
特に、
病気による現実的な恐怖。
介護家族の疲弊。
過去の殺人事件。
憑依。
不死の儀式。
母娘愛。
ファウンド・フッテージ。
これだけ違う要素を詰め込んで、最後まで破綻せず走り切ったのは普通に評価したい。
デボラが娘を守るため、過去にデシャルダンを殺した。
そして数十年後、今度はサラが母デボラを救う。
この母娘の対称構造も綺麗だった。
さらに最後には、その勝利すら完全勝利ではなかったとひっくり返す。
デシャルダンは消えていない。
むしろカーラという若く健康で、しかも「奇跡的に病気が治った少女」として周囲から守られる、非常に都合の良い新しい器を手に入れてしまった。
もしカーラ仮宿説で考えるなら、その先は結構見てみたい。
カーラとして日常生活へ戻ったデシャルダンが、周囲には普通の少女として振る舞いながら、新たな第五の犠牲者を探していく。
そして成長するにつれて、カーラ本人の意識とデシャルダンの人格がどうなるのか。
完全に乗っ取られているのか。
まだカーラ自身も中に残っているのか。
儀式完成時にはカーラの肉体そのものが完全な化生へ変わるのか。
ここまでやれば、スピンオフというより完全に続編一本作れる。
ただし作るなら今度こそ、実在部族ではなく完全な架空伝承として整理してほしいところ。
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映画としての完成度は高い。
演技も良い。
テンポも良い。
伏線も機能している。
怪異の正体も比較的早く見せながら、それでも最後まで緊張感が続く。
多少の強引さも、力押しできるだけの演出力がある。
だから私は素直に、
「なかなか良かった」
と評価する。
ただし、
実在部族への配慮。
アルツハイマー病という特定疾患をホラーへ持ち込むことの危うさ。
ファウンド・フッテージとしての編集主体の不明瞭さ。
この三点はかなり惜しい。
特に部族については、作品評価とは別に明確な問題として見ておきたい。
逆に言えば、この三つはどれも物語の面白さを失わず修正できた部分なんだよね。
架空の部族にする。
疾患名を限定しない。
映像の編集主体を一言示す。
それだけでもっと隙のないホラーになれたはず。
そう考えると、良作だったからこそ、
「あと少し設計が慎重だったら、さらに評価できたのにな」
という惜しさが残る作品でした。
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