『ノロイ』の個人的な感想・考察
『ノロイ』の個人的な感想・考察
『ノロイ』(2005年・日本・監督:白石晃士)
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②あらすじ
【起】
怪奇現象を専門に取材してきた実話怪談作家・小林雅文。彼はある日、近隣から聞こえてくる奇妙な音について調べてほしいという依頼を受け、石井潤子という女性の家を訪ねる。
石井は息子らしき少年と暮らしていたが、その言動は明らかに異様だった。やがて周囲では不可解な死や失踪が発生し、小林はこの一家を発端として、複数の怪事件を追跡していくことになる。
その頃、テレビでは超能力を持つ少女・矢野加奈が注目を集め、霊能者の堀光男は「大量の霊的存在が迫っている」と錯乱したような言動を繰り返していた。
一見無関係に見える出来事が、小林の取材によって少しずつ同じ方向へ集まり始める。
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【承】
小林はテレビ番組、過去の映像、新聞記事、古い資料などを調べていく。
その過程で浮上したのが、かつて存在した集落と、そこで行われていた「鬼祭」と呼ばれる奇祭だった。
さらに古い絵巻から、「禍具魂(かぐたば)」と呼ばれる呪術的存在についての記述が見つかる。
その製法には巫女が関与し、猿の胎児を食べさせるという異様な儀式が描かれていた。
一方、石井潤子について調べると、彼女が以前看護師として勤務していた時期、人工中絶によって死亡した胎児を持ち出していた疑いまで浮上する。
また各地で鳩の異常死が相次ぎ、犬などの動物も怪異に関係するかのように繰り返し登場する。
小林は、これらが過去に封印された禍具魂と関係しているのではないかと考えるようになる。
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【転】
調査を続けた小林は、石井潤子、加奈、堀、そして消滅した集落の鬼祭が、一つの巨大な怪異へ接続している可能性へ近づいていく。
加奈は古い儀式における「巫女」と重なる存在として扱われ、石井潤子はその儀式を現代で再現する実行者のような立場になっていることが示唆される。
そして石井潤子のもとに以前から存在していた謎の少年。
この少年そのものが、過去の呪術失敗によって封印から漏れ出した「禍具魂」の具象化なのではないか。
小林の調査は、単なる心霊現象ではなく、過去の集落で行われた呪術と、それが現代へ再び伝播している可能性へと踏み込んでいく。
しかし、禍具魂を誰が、誰に対して、何の目的で作ったのか。
なぜ儀式は失敗したのか。
鬼祭は具体的に何をどのように封じていたのか。
猿、鳩、犬、胎児はそれぞれ何を意味するのか。
肝心な部分は最後まで明確にはならない。
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【結】
ついに小林は怪異の中心へ到達する。
しかし真相を完全に解明することはできず、加奈も悲惨な結末を迎え、石井潤子の周辺ではさらなる異常現象が発生する。
小林自身もその後行方不明となり、残された映像だけが彼の最後の記録として提示される。
事件が解決したわけでも、禍具魂の正体が明らかになったわけでもない。
ただ怪異だけが残り、映像は終わる。
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③考察・感想・まとめ
実に20年ぶりの再鑑賞。
当時観た内容をほとんど覚えていなかったので、感覚としてはほぼ初見に近かった。
そして今観た一口感想を率直に言えば、
「お粗末」
だった。
評価が高い作品なのは知っている。カルト的な人気もあり、「考察が面白い作品」として扱われることも多い。
しかし私には、そもそも考察するだけの素材が足りていないように見えた。
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以前『セッション9』を観たとき、作品の表面的な部分――精神的に追い詰められた人間の末路という側面だけなら、日本映画の『感染』にも少し似ているなと思った。
そこから当時の日本ホラーを思い返した。
『感染』『予言』、そして『ノロイ』。
あの頃はこのあたりがずいぶん話題になっていた。
そこで久しぶりに『ノロイ』を観てみたわけだけど、20年の間にこちらも相当数のホラーを観てきた。
だからこそ、当時とは違うものが見えてしまったのだと思う。
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『ノロイ』には強いパーツがたくさんある。
廃村。
奇祭。
巫女。
古い絵巻。
霊能者。
超能力少女。
胎児。
猿。
犬。
鳩の大量死。
怪しい母親。
謎の少年。
失踪する取材者。
日本の心霊、民俗信仰、呪詛、都市伝説など、不気味に見せやすい素材がこれでもかと並べられている。
一つ一つの素材は良い。
日本らしさもある。
問題は、それをほとんど膨らませていないこと。
言ってしまえば、
「こういうの好きでしょ?」
という記号を並べただけに見えてしまう。
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最大の問題は、作品が途中から明確に「真相解明型」へ寄っていくことだと思う。
絵巻を分析する。
昔の集落を調べる。
鬼祭を調査する。
禍具魂という名称に到達する。
その製法まで判明する。
ここまでやれば、当然こちらは呪術の構造を知りたくなる。
誰が作ったのか。
誰を呪おうとしたのか。
何のための呪いだったのか。
なぜ失敗したのか。
なぜ失敗すると禍具魂が外へ出るのか。
鬼祭ではどのように封印していたのか。
なぜ猿なのか。
なぜ胎児なのか。
なぜ巫女に食べさせるのか。
鳩は何なのか。
犬は何なのか。
ところが、その答えがほとんどない。
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ここが、単なる「謎を残したホラー」とは違う。
謎を残すこと自体はまったく問題ない。
むしろホラーなら、最後まで分からないほうが怖いことだって多い。
ただし、それなら最初から、
「調べれば調べるほど分からなくなる」
方向へ振り切るべきだった。
真相を追っているつもりだったのに、理解不能で理不尽な何かに徐々に追い詰められ、人間側の理解能力を完全に越えたところまで連れていけばいい。
それなら怖い。
ところが『ノロイ』は、資料を集め、名称を明らかにし、製法まで説明する。
つまり「解明できます」という方向へ観客を誘導している。
だったら解明しなければならない。
なのに、必要なところだけふわっとさせたまま、最後は人が死んで終わる。
それでは恐怖ではない。
ただ説明が足りないだけだ。
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特に「呪い」を扱うなら、ここはもっと丁寧でなければいけないと思う。
古今東西、呪術というものは意外なほど細かい。
何を使うのか。
どう苦しめるのか。
誰の怨念を利用するのか。
誰へ向けるのか。
どう支配するのか。
失敗すると何が起こるのか。
その手順にちゃんと意味がある。
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たとえば、日本に古くから伝わる犬神。
犬を首だけ出した状態で地中へ埋め、食べ物を目の前へ置きながら与えず、極限まで飢えさせる。
そして怨念が最大まで高まったところで首を落とし、その怨霊を呪術へ利用する。
非常に残酷だ。
しかし単に「残酷なことをしました」という話ではない。
犬を苦しめる。
人間への憎悪を作る。
その怨念を呪いへ転換する。
制御に失敗すれば術者自身へ返ってくる。
手順一つ一つに因果がある。
だから恐ろしい。
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では禍具魂はどうか。
猿の胎児を巫女に食べさせる。
……それだけ。
なぜ?
猿である必要は?
胎児である必要は?
なぜ巫女が食べる?
そこで誰の怨念が生まれる?
その怨念は誰へ向かう?
術者は誰?
標的は誰?
何を代償にしている?
何も分からない。
異様な絵面を一つ置いただけに近い。
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私はむしろ、呪術や民俗信仰を扱うなら、架空の呪いであればあるほど内部論理をしっかり作らなければいけないと思う。
創作だから自由。
それはその通り。
でも自由だからこそ、
「この世界では、なぜこの呪いが成立するのか」
を作らなければならない。
古い漢字を使った名前を付ける。
絵巻を出す。
村を消す。
巫女を出す。
猿を出す。
鬼を出す。
それだけで民俗ホラーになるわけではない。
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むしろ、これだけ日本古来の心霊、呪詛、民俗信仰のイメージを借りておきながら、その背景を掘らないのは、かなり雑に扱っているようにすら感じる。
勉強不足なんじゃないの?
とまで思ってしまう。
古い呪術や民俗信仰には、その土地、その共同体、その時代、人間関係、恐怖、欲望、怨念が積み重なっている。
だから怖い。
『ノロイ』には、その「堆積」がない。
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そして私なりに辻褄を合わせようとすると、
「禍具魂は二つ存在していたのではないか」
という解釈になる。
一つ目は、過去の禍具魂。
昔の集落で呪術が行われたものの失敗し、呪詛返しによって封印から漏れ出した。
最後の鬼祭のときに外へ出てしまい、その後も存在し続けている。
その具象化した姿が、石井潤子のところにいた謎の少年。
そして通常の呪詛返しのように術者を直接殺すのではなく、別の人間へ憑依・伝播していく形式で返ってきた。
その実行役として選ばれたのが石井潤子。
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そして二つ目。
石井潤子が新たな巫女として加奈を選び、過去の儀式をもう一度行った。
加奈の死によって、新しい禍具魂が完成した。
つまり最後には、
過去から存在する旧禍具魂。
そして現代で新しく生み出された禍具魂。
二つが世に放たれた。
そう考えれば、少しは辻褄が合う。
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しかしこれは作品から自然に導き出された「考察」なのかと言われたら、私はそう思わない。
納得できないところを、こちら側が無理やり納得するために作った補修案だ。
映画側にある材料を掘っていった結果、新しい意味へ到達したわけではない。
不足しているから、こちらが脚本を書き足しただけ。
そんなものは考察とは言わない。
だから別に面白くもない。
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石井潤子が看護師時代、人工中絶で死亡した胎児を持ち出していたという話も同じ。
誰に食べさせたの?
あの少年?
自分?
別の巫女候補?
禍具魂への供物?
そもそも何年も前から何をしていたの?
加奈が選ばれたのはずっと後。
なら、それ以前に持ち出した胎児は何だったのか。
かなり重要そうな情報なのに、それすら繋がらない。
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鳩もそう。
何度も出てくる。
大量死まで起こる。
だったら意味があると思うじゃない。
禍具魂の接近を示すものなのか。
供物なのか。
媒介なのか。
呪術の材料なのか。
ただ霊的影響で死んでいるだけなのか。
結局分からない。
何度も見せておきながら、その記号に意味を与えないなら、象徴ではなく雰囲気づくりでしかない。
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POV、フェイクドキュメンタリーとしても、今観るとかなり弱い。
確かに2005年当時の日本では珍しかった。
それは認める。
しかし、
珍しい=優れている
ではない。
ここは完全に別の話。
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『ブレア・ウィッチ・プロジェクト』は、何も見せないことそのものが恐怖になっている。
森の中で人間関係が崩れ、方角を失い、何がいるのか最後までよく分からない。
撮影形式と恐怖が一致している。
『REC』なら、報道カメラが隔離された建物の中へ入り、そのカメラで事件の進行を追う。
撮り続ける理由も明確。
閉鎖空間と感染と撮影形式が全部一体化している。
『パラノーマル・アクティビティ』なら、定点カメラで「眠っている間に何が起きているのか」を記録する。
だから定点撮影でなければ成立しない。
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『トロール・ハンター』も非常によくできている。
若者たちが取材を続ける理由がある。
なぜ政府が隠蔽するのか。
トロールとは何なのか。
どういう生態なのか。
何に弱いのか。
どう被害を隠すのか。
フェイクドキュメンタリーという形式自体が、世界設定と一体になっている。
荒唐無稽なのに世界はちゃんと成立している。
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では『ノロイ』は?
テレビ映像。
ホームビデオ。
ニュース。
心霊番組。
取材映像。
色々混ぜた。
当時の日本では珍しかった。
でも、それだけ。
この形式でなければ成立しない恐怖が弱い。
「海外で流行ったフェイクドキュメンタリーの作風を日本へ持ってきて、日本人が好きそうなオカルト素材を並べました」
今の私には、かなりその程度に見えてしまう。
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同じ白石晃士監督でも、『カルト』のほうが私はずっと好きだし、作品としても評価している。
『カルト』はB級。
映像も低予算感がある。
設定もかなりぶっ飛んでいる。
でも、自分がB級ホラーであることを分かっている。
そして「B級の中での良作」をちゃんと狙って、ちゃんと結果を出している。
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『カルト』では、最後まで敵の全貌が分からない。
あれは悪霊なのか。
巨大な呪術体系なのか。
組織なのか。
宗教なのか。
どれだけの人間が関わっているのか。
味方だと思っている人間まで既に向こう側なのか。
まったく分からない。
でも、それでいい。
最初から「全部解明します」という話をしていないから。
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しかも『カルト』の場合、
今回目の前で起きた事件なんて、全体から見ればほんの一部だったのでは?
という恐怖が残る。
どこまで広がっているのか分からない。
誰を信用していいかも分からない。
だから怖い。
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ホラーで未知を扱うなら、これくらい振り切っていい。
全部解明して壊滅させてしまったら、もう怖くない。
「この怪異の正体はこうでした」
「この儀式によって生まれました」
「専門家が調査した結果こういう仕組みでした」
「そして封印しました」
まで行ったら、それはホラーというより、ゴールデンタイムの民放でやる怪奇特番だ。
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もちろん、怪異を倒すホラーだってある。
でも「未知」そのものを恐怖にする作品なら、最後まで何かが人間の理解の外側に残らないといけない。
『カルト』はそこを分かっている。
『ノロイ』は、解明する方向へ走ったのに解明しなかった。
この違いは大きい。
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都市伝説系の短編フェイクドキュメンタリーのほうが、『ノロイ』よりよほど形式として成立している作品も多いと思う。
都市伝説なら、
こういう噂があります。
調査します。
怪しいものが出てきます。
最後まで真相は分かりませんでした。
これで成立する。
そもそも都市伝説自体が、真偽不明の話だから。
シンプルでいいんだよ、こういうのは。
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『ノロイ』の場合、A級を狙ったのか、B級の良作を狙ったのか、その立ち位置までよく分からない。
本格民俗ホラーなら設定が浅い。
B級娯楽ホラーなら見せ場が弱い。
未知の恐怖なら説明を出しすぎ。
謎解きなら答えが足りない。
何を狙った作品なのかが混線している。
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それでも『ノロイ』は公開当時から評価が高く、現在まで名作として語られることが多い。
ここは正直、今もよく分からない。
もちろん、高評価を得たという実績そのものは否定できない。
映画の評価は観た人がつけるもの。
多くの人が怖いと思い、面白いと思い、支持した。
それは確かな実績。
そこは別に否定する必要はない。
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ただ、
2005年当時に珍しかったこと。
現在でも作品として完成度が高いこと。
これは分けて考えなければいけない。
当時として革新的だった。
それは歴史的評価。
でも現在、多数の優れたフェイクドキュメンタリーやファウンド・フッテージが存在する中で見直したらどうなのか。
そのとき初めて、
「当時は面白かった。でも今観ると粗いよね」
という再評価があってもいいはず。
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映画は公開されたあとも、比較対象が増えていく。
ジャンルも発達する。
撮影技術も進歩する。
観客自身も映画を観続ければ知識が増える。
なら評価も変化して当然。
当時の功績を消す必要はない。
「当時は当時、今は今」
で切り分ければいい。
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海外の映画文化を見ていると、こうした再評価は比較的よく起こる印象がある。
公開当時は酷評された作品が、後に高く評価されることもある。
逆に、当時は革新的だった作品が、
「今観るとここはかなり古い」
「脚本は実は弱かった」
と再検討されることもある。
評価は動く。
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日本では、一度「名作」「カルト作」「伝説の作品」という肩書がつくと、その評価がかなり固定されやすいように感じる。
昔そう評価された。
有名な評論家が褒めた。
ファンが多い。
だから名作。
そこからもう一度作品そのものへ戻って再検証する動きが弱い。
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一般視聴者については、それでもいい。
映画は娯楽でもある。
話題になった映画へ飛びついて、その瞬間楽しむ。
怖かった。
泣いた。
面白かった。
それで終わる。
そういう人たちも映画産業を支えている大事な観客だし、その楽しみ方を否定するつもりはない。
実際、身近にもそういう楽しみ方をしている人は多い。
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ただ、評論家は別だと思う。
評論家には膨大な映画知識がある。
映画史を知っている。
ジャンルの系譜を知っている。
監督や制作背景も知っている。
それなのに最終的な答えが一般視聴者とほとんど変わらず、
「当時として革新的」
「今なお名作」
という固定評価を繰り返すだけなら、評論家である意味はどこにあるのだろうと思ってしまう。
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評論家なら、
公開当時の価値。
現在の価値。
歴史的重要性。
作品単体の完成度。
先行性。
後続作品との比較。
脚本。
撮影形式。
社会背景。
制作事情。
それぞれを階層分けして評価してほしい。
そして比較対象が増えたなら、評価も更新してほしい。
そうでなければ、膨大な知識を持っているだけで、素人の感想や考察との差が小さくなってしまう。
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これは別に、映画を批判して楽しんでいるという話ではない。
むしろ逆。
映画をどこまで掘り下げて楽しめるかという話。
作品単体だけを見るのではなく、
なぜこの時代に作られたのか。
どんな先行作品があったのか。
監督は何を考えていたのか。
製作側にはどんな事情があったのか。
当時の社会はどうだったのか。
後の作品へ何を残したのか。
そんなところまで掘る。
それも映画の楽しみだと思う。
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これは音楽でも同じ。
クラシックならアナリーゼというものがある。
楽曲構造を分析する。
作曲家の人生を知る。
その時代を知る。
作曲したときの心理や社会背景を知る。
そうすると、同じ曲でも聴こえ方が変わる。
作品単体の美しさだけではなく、その背後にあるものまで含めて楽しめる。
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映画だって同じだ。
脚本。
映像。
演技。
編集。
ジャンル史。
監督の作家性。
社会背景。
制作事情。
観客の受容。
後続作品への影響。
全部が作品を構成している。
だから映画好きとして観続けているなら、自分自身の評価だって更新されていくはず。
昔好きだったものが今はそうでもない。
昔理解できなかったものが今はものすごく面白い。
それでいい。
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過去の自分の評価を変えることは、過去を否定することではない。
映画を観続けてきたから、比較する材料が増えた。
自分自身も変化した。
その結果、見え方が変わっただけ。
むしろ、それこそ映画と長く付き合っている証拠だと思う。
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そして今回話していて、一番しっくりきた言葉がこれだった。
「映画を生きた文化として扱うなら、評価もまた生きていなければならない。」
映画そのものは完成した時点から変わらない。
でも、それを取り巻く時代は変わる。
ジャンルは発展する。
社会も変わる。
観客も成長する。
なら、評価だけが20年前のまま固定されているほうがおかしい。
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『ノロイ』には、2005年当時の日本でフェイクドキュメンタリーという形式を強く印象づけた歴史的価値はある。
それは残していい。
多くの人を怖がらせたという実績もある。
それも否定しない。
でも現在の私が、20年間に観てきた大量のホラー映画と比較して評価するなら、
民俗ホラーとして浅い。
呪術設定として浅い。
フェイクドキュメンタリーとしても形式が恐怖へ十分接続していない。
解明劇として情報不足。
未知の恐怖としても振り切れていない。
強いパーツを並べただけで、それぞれを一つの世界へ育てられていない。
だから、
「当時は話題になった。でも今観ると、かなりお粗末」
これが私の最終的な評価になる。
そして20年ぶりに観たからこそ、ここまで評価が変わった。
それ自体が、映画を長く観続ける面白さなのだと思う。
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