『八仙飯店之人肉饅頭』の個人的な感想・考察と、時代背景や社会問題

 『八仙飯店之人肉饅頭』の個人的な感想・考察と、時代背景や社会問題


『八仙飯店之人肉饅頭』(1993年・香港/監督:ハーマン・ヤウ)

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作品情報

作品名: 八仙飯店之人肉饅頭
原題: 八仙飯店之人肉叉焼包 / The Untold Story
製作年: 1993年
製作国: 香港
監督: ハーマン・ヤウ
主演: アンソニー・ウォン

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はじめに

『八仙飯店之人肉饅頭』。

このタイトルを聞いただけで、ある世代の日本人には独特の嫌な記憶が蘇る作品かもしれない。

1990年代半ば、日本社会は少年犯罪、オウム真理教事件、バブル崩壊後の不安、阪神淡路大震災、援助交際、ネット普及、そして「有害な映像や本が青少年に悪影響を与えるのではないか」という空気に包まれていた。

その中で、当時の日本社会を騒然とさせた少年犯罪の代表格として語られる「少年A」事件が起きた。彼が所有していたビデオテープの中に、この『八仙飯店之人肉饅頭』があったという話も当時広まり、猟奇的な映像作品が少年の心理を歪めたのではないか、というような言説も出回った。

当時、私は中学生だった。

その時代は、子供にサスペンスさえ見せたがらない親もいた。『名探偵コナン』でさえ避けるような家庭も珍しくなかった。少年犯罪への恐怖と、有害メディアへの警戒が、かなり雑に結びつけられていた時代だった。

その後、高校生になってから、友達が「これヤバいよ!見たらしばらく肉食えなくなるから!」とTSUTAYAでレンタルしてきたのが、この『八仙飯店之人肉饅頭』だった。

当時観た感想は、正直なところ、
「クソみたいな話だな」
だった。

言うほどゴアが強いとも思わなかった。もちろんビギナーにはきついだろうが、ホラー、スリラー、サイコ映画を観てきた自分にとっては、そこまで特別なゴア映画という印象ではなかった。

ただ、嫌なものは残った。

人肉をバラす。
ミンチにする。
肉まんにする。
客に食わせる。

そういう猟奇的な場面そのものよりも、むしろ警察、刑務所、病院、社会全体の倫理観のほうがやばいと感じた。人を人として扱っていない感じ、社会の粗暴さ、暴力と冗談の境界がぐちゃぐちゃな感じ。そちらのほうがずっと気持ち悪かった。

そして25年ぶりくらいに観直してみた。

やっぱり、クソみたいな話だった。

でも同時に、単なる駄作ではない。
これは、胸糞悪さを意図的に詰め込んだ作品であり、不快感を残す映画としては確かに成功している。

そして今回の再鑑賞では、映画そのものだけでなく、当時の日本社会、自分の学生時代の記憶、大人社会への不信感、映像作品と犯罪の関係、実際の事件、今のSNS社会まで、様々なことを考えるきっかけになった。

ある意味でこれは、私にとって青春時代の残骸を処理するような鑑賞だった。

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あらすじ

マカオの海岸で、切断された人間の遺体が発見される。

警察は捜査を進めるうち、被害者が八仙飯店というレストランを経営していた一家ではないかと疑い始める。しかし、その一家は忽然と姿を消しており、店は別の男ウォンによって営業されていた。

ウォンは、かつて賭博麻雀をめぐって店主と揉めた男だった。彼は店主一家を皆殺しにし、店を乗っ取り、そのまま何食わぬ顔で営業を続けていた疑いが浮かび上がる。

警察はウォンを追及するが、彼はなかなか自白しない。取り調べは荒く、警察側も決して品行方正ではない。拘置所では暴力が横行し、病院や施設の描写も無神経で、人権感覚はかなり雑に扱われる。

やがてウォンの犯行の全貌が明らかになる。

一家惨殺、遺体損壊、そして人肉を肉まんに加工して客に食わせたのではないかという、あまりにも悪趣味な展開。

映画は、凄惨な実録犯罪をベースにしながら、猟奇、ゴア、ブラックコメディ、警察もの、獄中暴力、社会の粗暴さを全部まとめて叩きつけるように進んでいく。

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実際の事件について

この映画の元になったのは、1985年に当時ポルトガル領だったマカオで起きた「八仙飯店一家殺害事件」である。

実際の事件では、レストラン経営者一家など複数人が殺害され、容疑者は店を乗っ取ったとされている。賭博絡みの金銭トラブル、レストラン、一家惨殺、店の乗っ取りという部分は、映画にもかなり反映されている。

ただし、映画と実事件には大きな違いもある。

映画では、人肉を肉まんにして客に食わせたという部分が強烈に描かれる。しかし、これは実際の事件で司法的に確定した事実というより、事件の猟奇性や遺体の行方をめぐって生まれた噂、都市伝説的な要素を映画が利用したものと見るべきだろう。

とはいえ、そういう噂が生まれてしまう構造は理解できなくもない。

舞台はレストラン。
被害者は一家単位で多数。
遺体は完全な形では見つからない。
犯人はその後も店を営業していた。

そうなると、悪趣味で無責任な大衆心理として、
「死体はどこへ行った?」
「まさか客に食わせたんじゃないか?」
という噂が膨らむのは想像できる。

そして映画は、その最悪の噂を最大限に利用した。

つまり『八仙飯店之人肉饅頭』は、実際の事件そのものを忠実に再現した作品というより、実事件を土台にしながら、そこに都市伝説、猟奇性、悪趣味、社会の粗暴さを大量に盛ったエクスプロイテーション映画である。

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考察・感想

ゴア映画なのか、社会派映画なのか

この作品を観ていて最初に感じるのは、
これはゴア作品なのか、社会派作品なのか、どっちなんだろう?
という中途半端さだった。

人肉を解体する。
ミンチにする。
肉まんにする。
それを客に食わせる。

設定だけ見れば、完全に悪趣味なゴア映画である。

しかし実際に観ると、ゴアそのものは今の感覚ではそこまで最上級ではない。もちろん当時としてはかなり刺激が強かっただろうし、ホラー初心者には相当きついと思う。だが、長年ホラー、スリラー、サイコ、実録犯罪映画を観ている身からすると、視覚的なゴアだけでいえば「もっとやばい映画はいくらでもある」と感じる。

むしろ強烈なのは、社会全体の倫理観の崩壊である。

警察が雑。
取り調べが雑。
拘置所が雑。
病院が雑。
人権感覚が雑。
暴力とギャグの境界が雑。

この映画の怖さは、血や肉そのものよりも、人間が人間を雑に扱う世界のほうにある。

だから、これは単純なゴア映画ではない。
かといって、洗練された社会派映画でもない。

では何なのか。

これは、嫌なものを全部詰め込んだ闇鍋のような映画である。

実録猟奇事件。
一家惨殺。
レストラン乗っ取り。
賭博。
人肉加工の都市伝説。
警察の雑さ。
留置場の暴力。
病院の無神経さ。
人権感覚の欠如。
犯人の異常な粘り。
コメディとシリアスの境界の曖昧さ。

それらを全部入れた結果、品はない。
綺麗でもない。
高潔でもない。
しかし、胸糞悪さを残す作品としては、かなり一貫している。

そこは評価できる。

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アンソニー・ウォンの怪演

この作品で一番強いのは、やはり主演のアンソニー・ウォンだと思う。

彼が演じるウォンは、単なる「狂人」ではない。
むしろ、妙に現実的な嫌さがある。

小狡い。
ふてぶてしい。
往生際が悪い。
粘る。
卑劣。
弱い。
でも異常な執着がある。

「こいつ、めちゃくちゃ粘るな」
「イカレ度合いがすごいな」
と思わせる演技で、犯人像としての不快さをきっちり成立させている。

彼は怪物のようでいて、完全な怪物ではない。
むしろ、最悪の人間として描かれている。

ここが気持ち悪い。

怪物なら、ある意味では現実から切り離せる。
しかしこの犯人は、人間の卑しさ、狡さ、暴力性、保身、粘着質な悪意が混ざった存在に見える。だからこそ、見ていて嫌な現実味がある。

この映画が単なる悪趣味な残酷映画で終わらないのは、主演の存在感が大きい。

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『PIGGY ピギー』との比較

今回、映画としての評価を考えたとき、スペイン映画『PIGGY ピギー』に少し近いものを感じた。

『PIGGY』もまた、嫌なものを詰め込んだ作品だった。

スペインの田舎。
閉鎖的な小さなコミュニティ。
肥満少女へのいじめ。
家庭内の圧力。
母親の無理解。
周囲の大人たちの鈍感さ。
そして、そこに現れる犯罪者。

『PIGGY』は、閉鎖的な田舎社会の不安定さをかなり誇張して描いている。
しかし、その誇張には説得力がある。

こういう社会なら、こういういじめがあってもおかしくない。
こういう家庭があってもおかしくない。
こういう犯罪者が入り込んでもおかしくない。

そう思わせる力がある。

『PIGGY』は、胸糞悪い作品でありながら、社会構造と主人公の心理がかなり練り上げられている。だから考察に耐えるし、かなり価値の高い逸品、あるいは奇作と言える。

それと比べると、『八仙飯店之人肉饅頭』は粗い。

社会派としての緻密さはない。
心理描写も洗練されていない。
構成も乱暴。
ギャグと暴力の切り替えも雑。
被害者への敬意という点でも、現代の感覚ではかなり危うい。

ただし、そこは時代の差もある。

近年の練り上げられた映画と、1993年の香港カテゴリーIII映画を同じ物差しで測るのは少し酷かもしれない。

『PIGGY』が、整理された胸糞だとすれば、
『八仙飯店之人肉饅頭』は、粗暴な闇鍋としての胸糞である。

『PIGGY』は、嫌な社会を構造的に組み立てて見せる。
『人肉饅頭』は、嫌なものを全部詰め込んで観客に叩きつける。

洗練度は違う。
しかし、どちらも「嫌な社会」を見せる作品ではある。

そして『人肉饅頭』は、粗いながらも、胸糞悪さに特化させた作品としては安定している。
それが観客に「当時の社会は本当にこうだったのか?」と錯覚させる。
その意味では、映画としての発想は実に見事だったと思う。

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『食人族』と同じく、「やばい」で片付けてはいけない作品

この手の作品は、すぐに「やばい映画」「悪趣味映画」「有害映画」としてラベル化される。

『食人族』もそうだ。

もちろん『食人族』は非常に問題の多い作品であり、今の感覚では到底そのまま肯定できない部分もある。だが、あれも単に「残酷でやばい映画」で片付けてしまうと、見落とすものが多い。

文明側の暴力。
撮影者の加害性。
メディアの搾取。
観客の覗き見欲。
「未開」を消費する側の傲慢さ。

そういうものが、悪趣味な形ではあるが、確かに含まれている。

『八仙飯店之人肉饅頭』も同じだ。

ただの人肉映画。
ただのゴア映画。
ただの悪趣味映画。

そう片付けるのは簡単だが、それだけでは足りない。

なぜこの映画は不快なのか。
何をどう不快に作っているのか。
どこまでが実事件で、どこからが噂や脚色なのか。
なぜ当時の日本社会はこういう作品を危険視したのか。
なぜ少年犯罪と映像作品を単純に結びつけたのか。
なぜ大衆は複雑な問題を一つの原因に押し込めたがるのか。

そこまで考えると、この作品はただの悪趣味映画ではなくなる。

ある意味で、リテラシーの整った今だからこそ観る価値がある作品だと思う。

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90年代日本と『八仙飯店之人肉饅頭』

私にとってこの映画は、他の国の人には伝わりにくいかもしれないが、日本の自分の世代にとっては、ある意味で時代を代表する作品の一つと言っても過言ではない。

もちろん、作品そのものが日本社会を代表しているわけではない。
香港映画であり、マカオの実事件をベースにした作品である。

しかし、この映画が日本でどのように受け止められたか。
少年犯罪の時代に、どういう文脈で語られたか。
「有害な映像が子供を歪める」という雑な言説の中で、どのような象徴になったか。

そこまで含めると、これは90年代日本を振り返るきっかけになる作品だった。

当時の日本は、混迷していた。

バブル崩壊後の不安。
阪神淡路大震災。
オウム真理教事件。
少年犯罪。
援助交際。
ネット普及。
有害図書。
ゲーム・漫画・映画への警戒。

社会全体が、何か得体の知れない不安に包まれていた。

そして、その不安を一つ一つ切り分けて考えるのではなく、
「最近の子供はおかしい」
「漫画が悪い」
「ゲームが悪い」
「ホラー映画が悪い」
「ネットが悪い」
というように、雑な原因探しに流れていた。

『八仙飯店之人肉饅頭』は、その時代の不安にとって、あまりにも都合の良い標的だった。

タイトルからして最悪。
実録猟奇事件。
人肉。
肉まん。
VHS。
香港残酷映画。
少年犯罪との関連を匂わせる情報。

大人社会が恐怖し、雑に危険物扱いするには、材料が揃いすぎていた。

だが、そこで本当に必要だったのは、禁止や断罪ではなかったはずだ。

これは実事件なのか。
これは脚色なのか。
この映画はどの年齢に適していないのか。
子供に強い刺激を与える可能性はあるのか。
それは犯罪の原因と直結するのか。
少年犯罪の背景には何があるのか。
家庭、学校、医療、福祉、地域、司法、メディアはどう関わるべきだったのか。

そういう切り分けが必要だった。

しかし当時の社会は、多くの場合、それをしなかった。

複雑な問題を一つのレールに乗せ、わかりやすい悪者を探した。
それによって、不安を一時的に処理しようとした。

でも、それは問題解決ではない。
ただの思考停止である。

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青少年への影響論について

映像作品が青少年に影響を与えるか。

これは、ゼロではないと思う。

精神が未成熟な子供にとって、暴力表現、残酷表現、性的表現、反社会的描写が刺激になることはある。発達段階、家庭環境、本人の性質、孤立、衝動性、現実との距離感によっては、何らかの影響を受けることもあるだろう。

だから映倫がある。
年齢制限がある。
家庭での視聴管理も必要になる。

ここを「フィクションなんだから何の影響もない」と言い切るのは、それはそれで雑だと思う。

しかし、そこからいきなり、
「この映画を見たから凶悪犯罪を起こした」
と結論づけるのは、あまりにも単純化しすぎである。

ホラー映画が好きだから、人を殺したいわけではない。
ゾンビ映画が好きだから、ゾンビパニックを現実に望んでいるわけではない。
サイコスリラーが好きだから、猟奇犯罪を実行したいわけではない。
性的コンテンツを見たからといって、そのまま性犯罪に直結するわけでもない。

多くのまともな精神の人間は、現実とフィクションの区別がついている。
むしろフィクションだからこそ楽しめる。

現実では絶対に起きてほしくないことを、安全圏から緊張感、恐怖、嫌悪感、背徳感、物語として消費している。

映像作品は犯罪のマニュアルではない。

ただし、素因がある人間、現実とフィクションの境界が弱い人間、孤立や攻撃性や異常な欲望を抱えている人間にとって、フィクションがイメージの補強材になることはあり得る。

つまり、完全無関係とも言えない。
だが、主原因とするのは違う。

影響はあり得る。
しかし、直結はしない。

この中間を考えられないことが、当時の日本社会の弱さだったと思う。

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「少年A」はあの時代だけの問題ではない

『八仙飯店之人肉饅頭』を観直して強く思ったのは、「少年A」という問題は、あの時代だけのものではないということだ。

もちろん、個別の事件には個別の加害者がいて、被害者がいて、具体的な経緯がある。
そこを「社会が悪い」で曖昧にしてはいけない。
加害責任は加害責任としてある。

しかし、個人だけに全部を押し込めてもいけない。

なぜその子がそこまで孤立したのか。
なぜ兆候を拾えなかったのか。
なぜ家庭、学校、地域、医療、福祉、司法、メディアがうまく接続しなかったのか。
なぜ社会は事件後、理解よりも恐怖と断罪に流れたのか。
なぜ原因を一つにしたがったのか。

そこまで考えないと、同じ構造は形を変えてまた現れる。

時代によって表面の形は変わる。

90年代なら、少年犯罪、有害図書、ホラー映画、ゲーム、オウム、援助交際、バブル崩壊後の不安。
今なら、SNS、孤立、家庭格差、発達特性、いじめの不可視化、ネット上の過激思想、承認欲求、炎上、誹謗中傷、フェイク情報。

見た目は違う。
しかし根っこには、似たものがある。

孤立。
理解されなさ。
偏見。
制度の隙間。
大人社会の鈍感さ。
情報環境の歪み。
不安を誰かに押しつけたがる大衆心理。

事件は、その時代の社会の闇が表面に露出したものでもある。
だからこそ、事件を見るときは「異常者がいた」で終わらせてはいけない。

何がどうして、こうなってしまったのか。
どこで止められたのか。
どの制度が機能しなかったのか。
どの偏見が見落としを生んだのか。
どの大人が何を見誤ったのか。
社会は事件後に何を学び、何を間違えたのか。

いつどんな事件でも、そこを考えてアプローチしていく必要がある。

社会という構造単位で。

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教育、医療、偏見

今回この映画を観直して、自分の学生時代の記憶もかなり蘇った。

当時、私は大人や社会に対して不信感を抱いていた。
勝手に決めつけられる理不尽。
雑に押し付けられる価値観。
子供や若者を一括りにして断罪する空気。

それが今でも記憶に残っている。

だからこそ、理屈で物事が成立する医療の道へ進んだのかもしれない。
医療ほど理屈で成り立っている分野は、なかなかない。

もちろん医療も人間がやることなので、思い込みや古い慣習や偏見が入り込むことはある。
しかし本来の医療は、少なくとも建前としては、
観察し、検査し、根拠を確認し、鑑別し、リスクと利益を比較し、説明し、経過を見て、必要なら修正するものだ。

「なんとなく怪しい」
「昔からそう言われている」
「みんなそう思っている」
では治療はできない。

そこが大事だった。

そして、教育現場こそ本来は偏見があってはいけない場所だと思う。

子供はまだ発達途中であり、家庭環境も能力も性格も事情も違う。
だからこそ、ラベル貼りではなく観察と理解が必要になる。

しかし実際には、教育現場ほどラベルが強く働くことがある。

「問題児」
「普通じゃない」
「家庭に問題がある」
「最近の子」
「扱いにくい」
「やる気がない」

こういう言葉で片付けると、大人側は楽になる。
しかし、その子自身を見なくなる。

これは医療で言えば、症状も検査も見ずに病名だけで決めつけるようなものだ。

もちろん、先生たちの職務環境が過酷であることも理解している。
生徒の家庭環境、経済状況、発達特性、保護者対応、SNSトラブル、人手不足、事務作業。
教育現場を取り巻く問題は複雑で、一口に「教師が悪い」と断定できるものではない。

しかし、それでも譲れない線はある。

偏見で子供を見てはいけない。
決めつけで人を扱ってはいけない。
わからないなら学ぶべき。
間違えたら修正すべき。

ここは絶対に必要だと思う。

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現代SNS社会と90年代の繰り返し

今の時代、昔より遥かに短時間で、精度の高い情報を集めることができる。
医学、心理学、教育、犯罪学、メディア研究、社会制度。
学ぼうと思えば、かなり多くの正しい情報にアクセスできる。

しかし現実には、大衆はSNSの曖昧な情報に振り回されている。

一次情報を確認しない。
文脈を読まない。
怒りに合う情報だけ拾う。
専門家の慎重な説明より、断言口調の素人を信じる。
そして拡散する。

今は、昔よりも大衆自身が加害側に立ちやすい。

90年代はテレビ、週刊誌、ワイドショーが不安を煽り、大衆がそれを受け取る構図だった。
今はSNSによって、大衆自身が情報を煽り、拡散し、断罪し、誰かを傷つける側にも回る。

しかも本人は、自分が正しいことをしていると思っている。

これが怖い。

健康情報も同じである。

私は健康系ブログサイトを運営しているが、医療情報や体験談は本当に慎重に扱っている。
誤解や誤認識を避け、ポリシーを守り、断定を避け、個人体験と一般情報を分け、治療判断に踏み込まないようにしている。

なぜなら、健康情報は人を傷つけるからだ。

間違った情報で受診が遅れる。
不安が増える。
不要な治療に走る。
薬をやめる。
民間療法に流れる。
病気の人を責める。
家族が誤解する。

だから慎重でなければならない。

しかしSNSでは、その慎重さがない情報が大量に流れている。
そして大衆はそれを雑に受け取り、雑に広める。

これは本当に、90年代の繰り返しに近いと感じる。

当時は、ホラー映画や漫画やゲームが雑に悪者にされた。
今は、SNS上で別の何かが雑に悪者にされる。
構造は変わっていない。

人間は、複雑な問題を複雑なまま扱うのが苦手だ。
だから一つの悪者を作る。
わかった気になる。
安心する。
そして、また間違える。

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社会倫理は更新されるべきもの

社会や倫理は、固定されたものではない。

だいたい20年ごとに見直されるものだと思う。
なぜなら、社会は変わるからだ。

昔は許されたことが、今は許されない。
昔は見えなかった被害が、今は見える。
昔は「我慢しろ」で済まされていたことが、今は構造の問題として扱われる。

ハラスメント関連は、その良い例だと思う。

昔なら、
「そのくらい我慢しろ」
「愛のある指導」
「冗談だろ」
「男なら当然」
「女なら当然」
で流されていたことが、今は問題として言語化されるようになった。

もちろん、現代の倫理にも過剰反応や雑な断罪はある。
新しい価値観が常に完璧なわけではない。

だからこそ、また切り分けが必要になる。

何が本当に被害なのか。
何が過剰な断罪なのか。
何が必要な規制なのか。
何が表現の自由なのか。
何が教育なのか。
何が偏見なのか。

それを一つ一つ考える必要がある。

「昔はよかった」でもない。
「今がすべて正しい」でもない。

社会は変わる。
だから倫理も更新される。
しかし更新には、思考が必要である。

そこを学ばないと、同じ失敗を繰り返す。

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『馬鹿の壁』的な問題

今回の考察で、何度も思い出したのが養老孟司先生の『馬鹿の壁』だった。

人間は、自分が見たいようにしか世界を見ない。
自分の脳に都合よく情報を切り取る。
一度「これはこうだ」と決めてしまうと、後から正しい情報が入ってきても更新できない。

まさにそれである。

90年代の日本社会は、少年犯罪や有害メディア論に対して、かなり強い「馬鹿の壁」を作っていたと思う。

「こういう映画を見るからおかしくなる」
「漫画が悪い」
「ゲームが悪い」
「最近の子供は異常だ」
「若者文化は危険だ」

一度そう決めると、それに合う情報ばかり集める。
合わない情報は無視する。
複雑な背景は考えない。
そして、大人社会の偏見を「子供を守るため」という善意の顔で押し付ける。

これが本当に嫌だった。

そして今のSNS社会にも、同じことが起きている。

人は、自分の怒りに合う情報を信じる。
自分の不安に合う敵を探す。
自分の正義に酔う。
そして、間違った情報でも平気で拡散する。

だからこそ、今一度『馬鹿の壁』を読むべきだと思う。

自分は本当に考えているのか。
ただ流されているだけではないのか。
見たいものだけ見ていないか。
わかった気になっていないか。
相手をラベルで判断していないか。
複雑な問題を一つの原因に押し込めていないか。

そう問い直すことが必要だ。

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今この作品を観る意味

『八仙飯店之人肉饅頭』は、綺麗な映画ではない。

下品で、粗暴で、悪趣味で、倫理的にも危うい。
実録犯罪を娯楽化している面もあり、現代の感覚ではかなり引っかかる部分が多い。
被害者への敬意という点でも、手放しに褒められる作品ではない。

しかし、それでも観る価値はあると思う。

単に「グロい」「やばい」「胸糞悪い」で終わらせるのではなく、
この映画がなぜ不快なのか、
なぜ当時の日本社会と結びついたのか、
なぜ人はこういう作品を危険物扱いしたがるのか、
なぜ実事件は都市伝説化したのか、
なぜ大衆は複雑な問題を一つの悪者に押し付けるのか、
そういうことを考えるための素材になる。

これは、ある意味で汚い教材である。

綺麗な教材ではない。
上品な教材でもない。
しかし、人間社会の嫌な部分を考えるには向いている。

映画というものは、名作だけが人生に残るわけではない。
B級映画、悪趣味映画、胸糞映画、問題作、当時の記憶と結びついた作品。
そういうものが、後になって自分の中の未整理だった棚を開けることがある。

今回の私にとって、『八仙飯店之人肉饅頭』はまさにそれだった。

若い頃は、
「クソみたいな話だな」
で終わった。

でも今観ると、
「なぜクソみたいな話として作られているのか」
「その胸糞悪さはどこから来ているのか」
「なぜ当時の日本社会はこの作品をああいう形で受け止めたのか」
「自分は当時、何に不信感を抱いていたのか」
まで見える。

これは、映画を観続けてきた人間だからこそできる再鑑賞だったと思う。

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まとめ

『八仙飯店之人肉饅頭』は、単純なゴア映画ではない。
かといって、洗練された社会派映画でもない。

これは、実録猟奇事件、都市伝説、香港カテゴリーIII映画の悪趣味、警察や拘置所や病院の粗暴さ、人権感覚の欠如、犯人の異常な粘り、ブラックコメディとシリアスの境界の曖昧さを全部詰め込んだ、胸糞悪い闇鍋映画である。

品はない。
粗い。
悪趣味。
現代基準では危うい。

だが、不快感を残す作品としては成功している。

そして私にとっては、それ以上に、90年代日本の記憶を呼び起こす作品でもあった。

少年犯罪。
有害メディア論。
大人社会の決めつけ。
教育現場への不信。
若者文化への偏見。
複雑な問題を一つの原因に押し込める社会の弱さ。

そうしたものが、この映画を通して一気に蘇った。

「少年A」は、あの時代だけの問題ではない。
それ以前にもあり、今もあり、これからも形を変えて現れる問題だと思う。

時代によって性質は少しずつ違う。
しかし根っこには、社会の闇、孤立、偏見、制度の隙間、大人社会の鈍感さ、情報環境の歪み、不安を誰かに押し付けたがる大衆心理がある。

だから、どんな事件でも、
「異常者がいた」
「映画が悪い」
「漫画が悪い」
「ネットが悪い」
で終わらせてはいけない。

何がどうしてこうなったのか。
どこで止められたのか。
何を見落としたのか。
どの構造が機能しなかったのか。
社会は事件後に何を学び、何を間違えたのか。

そこを考え続ける必要がある。

問題をすべて一つのレールに乗せない。
一つ一つ切り分ける。
個人を見る。
構造を見る。
被害者を見る。
加害者を見る。
周囲の失敗を見る。
メディアの反応を見る。
自分自身の受け止め方も見る。

考えることこそ、人間の本質である。

漫然と流されて生きているだけでは、90年代の日本の繰り返しになる。
今のSNS社会は、まさにその危うさを抱えている。

だからこそ、学ぶ必要がある。
更新する必要がある。
偏見を疑う必要がある。
自分の中の「馬鹿の壁」を見つめ直す必要がある。

『八仙飯店之人肉饅頭』は、決して綺麗な映画ではない。
しかし、この歳になって観直したことで、当時の記憶、社会への不信、映画への見方、医療的な思考、現代社会への危機感まで、かなり綺麗に整理することができた。

ある種の、青春時代の残骸の処理ができた感じがする。

そういう意味で、今回の再鑑賞はとても良い勉強になった。

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