『PIGGY ピギー』の個人的な感想・考察

 『PIGGY ピギー』の個人的な感想・考察


①『PIGGY ピギー』(2022年・スペイン/フランス・監督:カルロタ・ペレダ)


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②あらすじ

【起】

スペインの地方の町で暮らす少女サラは、太った体型を理由に、同年代の少女たちから日常的にいじめを受けている。

水着姿を嘲笑され、動画を撮られ、侮辱され、所持品を奪われる。彼女に向けられる悪意はかなり露骨で、単なるからかいでは済まないレベルに達している。

家庭にも安らぎは少ない。父親は頼りないが優しさはある。一方で母親は非常に厳しく、サラへの愛情がないわけではないものの、その愛情の出方は強圧的で、時にDVに近い抑圧にも見える。

サラは学校でも家庭でも、自分の輪郭を他人に決められ続けている。
「自分」というものを、自分自身でもうまく掴めなくなっている少女として描かれる。

【承】

ある日、サラはプールでいじめ加害者たちからひどい辱めを受ける。帰り道、彼女は偶然、謎の男がその少女たちを拉致している現場を目撃する。

男はサラに危害を加えない。
むしろ、サラをいじめていた少女たちを連れ去った存在として、奇妙な形でサラの側に立っているようにも見える。

この時点で物語は、単純な「猟奇殺人犯から逃げる話」にはならない。
サラは被害者でありながら、同時に目撃者でもあり、さらに加害者たちを見捨てるかどうかという選択を突きつけられる立場になる。

犯人は明確に危険な存在であり、猟奇的なストーカーである。
だが皮肉なことに、作中で唯一サラを“見ている”存在でもある。

【転】

町では行方不明事件が騒ぎになり、住民たちは不安と怒りに飲み込まれていく。

ここで浮かび上がるのは、犯人だけの異常性ではない。
むしろ、この町そのものの危うさである。

住民たちは当局と冷静に協力するよりも、噂、怒り、疑心暗鬼、集団心理に流されていく。民間人が暴走し、統治の弱さも見えてくる。事件への対応は秩序立ったものではなく、共同体の粗暴さや民度の低さがむき出しになる。

学校のいじめ、家庭の抑圧、町全体の暴力性。
それらすべてがサラを追い詰めている。

犯人は外から来た異常者でありながら、完全に浮いた怪物には見えない。
むしろ、この社会の歪みに溶け込んでいる。
この町なら、こういう事件が起きてもおかしくない。そう思わせる嫌なリアリティがある。

サラは犯人への恐怖、いじめ加害者たちへの怒り、見殺しにしてしまいたい気持ち、自分を理解してくれるかのように見える悪への揺らぎの中で、過ちを繰り返していく。

【結】

最後にサラは、いじめていた少女たちを助ける選択をする。

それは、単なる善行ではない。
自分を傷つけてきた者たちを見殺しにしないことで、サラは初めて「自分はどうする人間なのか」を自分で決める。

犯人はサラにとって、唯一の味方のように見えた存在でもあった。
だが、その正体は猟奇的な殺人者であり、サラを本当に救う存在ではない。

サラは犯人を退ける。
そして、あの町の暴力性、いじめ加害者たちと同じ方向、復讐や見殺しの誘惑にも乗らない。

「自分はお前たちとは違う」
そう言えるだけのハートを、最後に手に入れた。

完全に明るい結末ではない。
だがサラが、他人に決めつけられた自分から抜け出し、自分の倫理を自分で選べたという意味では、とても良い幕引きだった。

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③考察・感想・まとめ

『PIGGY ピギー』は、一口にジャンル分けするのが難しい作品だった。

サスペンスでもある。
スリラーでもある。
少女の成長譚でもある。
閉鎖共同体ホラーでもある。
いじめや体型差別を扱う社会派ドラマでもある。
さらに、サラが「見殺しにするか、助けるか」という極限状況に置かれる意味では、シチュエーションスリラー的でもある。

ただ、大きく分類するなら、これは社会派作品として見るのが一番しっくりくる。

事件の筋自体は、わりとシンプルである。
デブ専の猟奇的なストーカーが、サラをいじめていた少女たちを襲い、殺していく。そこにサラが巻き込まれる。

けれど、この映画の重心は犯人探しや猟奇性そのものにはない。

むしろ描かれているのは、サラを追い詰める社会全体である。

学校でのいじめ。
体型差別。
家庭内での強い抑圧。
頼りない父親。
愛情はあるが厳しすぎる母親。
噂と暴走に飲まれる町。
当局と住民の協力体制の弱さ。
弱い立場の人間を守れない閉鎖的な共同体。

それらが全部つながって、サラにとっての最大の害悪になっている。

この映画で怖いのは、犯人だけではない。
むしろ、犯人が成立してしまう土壌のほうが怖い。

普通なら、猟奇的なストーカー殺人犯が出てきた時点で、物語の重心は犯人に吸われる。
でも『PIGGY』ではそうならない。

犯人は危険で異常だが、町全体がすでに歪んでいるため、犯人だけが突出した怪物には見えない。
あの土地の暴力性、差別、抑圧、集団心理の中に、犯人の異常性が妙に溶け込んでいる。

だからこそ、犯人だけに絞ったサスペンスではなく、町、家庭、学校、身体差別、少女の孤独、復讐衝動、倫理的選択まで含めた「全体」で届けるサスペンスになっている。

この構成はかなり綿密だと思う。

胸糞要素は多い。
いじめも、体型差別も、毒に近い家庭内圧も、閉鎖的な町も、住民の暴走も、ストーカー殺人もある。

でも、「こういうネタ好きだろ?」と胸糞要素を雑に並べただけの映画ではない。

たくさん入れたうえで、きちんとまとめている。
散らかさず、サラの内面と最後の選択へ向かって、一本の方向性に収束している。

この映画の本質は、サラが「他人に決められた自分」から抜け出して、「自分は何を選ぶ人間なのか」を掴む話だと思う。

いじめ加害者を助けるラストは、単純な勧善懲悪ではない。
自分を傷つけた相手を見殺しにしないことで、サラは自分自身の倫理を取り戻す。

サラは、犯人を倒しただけではない。
自分を子ブタ扱いしてきた連中、母親の支配、町の暴力性、そして自分の中に一瞬生まれた復讐や見殺しへの誘惑を、最後に踏み越えた。

そこにこの映画の救いがある。

キャッチコピーの「もう子ブタとはいわせない」は、正直、少し内容と不一致に感じた。
この言葉だと、いじめられっ子が反撃する痛快リベンジ映画のように見える。

だが実際の作品は、もっと湿っていて、痛くて、暗い。
反撃の映画というより、自分を取り戻す映画である。

より正確に言うなら、
「呼ばれた名前ではなく、自分自身を取り戻す話」
に近い。

また、スペイン映画らしいとっつきにくさも強かった。

スペイン映画はサスペンスもスリラーもホラーも豊富で、作品ごとに土地が違い、その土地ならではの風土、民度、コミュニティ単位の土着文化が色濃く出ることがある。

そこが日本人にはわかりづらい。

この町の住民の荒さは、その土地の普通なのか。
母親の厳しさは文化的なものなのか、異常として描かれているのか。
親の力の強さ、共同体の距離感、住民の暴走、当局との関係性。
その尺度が、日本人視聴者には掴みにくい。

だから冒頭である程度この空気を読めないと、ついていけない人もいると思う。
日本だと、映画好きでないと手を出しにくいタイプの作品だろう。

ただ、あの町は意図的にかなり民度の低い共同体として描かれているように見えた。
そこを理解できると、作品全体のバランスはかなり良い。

実際、日本でも100年前であれば、ああいう村社会的な圧や集団心理はまったく他人事ではなかった。
現代でも形を変えて残っている部分はある。

だからこの映画は、「スペインの田舎はひどい」という話ではない。
閉鎖共同体が腐ると、人間はここまで残酷になれる。
弱い立場の人間は、ここまで簡単に逃げ場を失う。
そういう社会の危うさを描いた作品として見るべきだと思う。

サラは、その社会の危うさの象徴として置かれている。
社会の歪みが、一人の少女の身体と心に集中してしまった存在である。

だからこそ、違う国の人間が観ても意味がある。

人の振り見て我が振り直せ。
この作品を観ることで、自分たちの社会にも似た構造はないか、誰かを集団で追い詰める空気を見逃していないか、弱い立場の人間をさらに黙らせる仕組みになっていないか、考えるきっかけになる。

もちろん、映画なのでフィクションである。
だが、完全な絵空事ではない。
フィクションらしさを残しつつも、現実味がある。
こういうことも起こりうるかもしれない、そう思わせる危うさがあった。

万人受けはしない。
かなりダークで、だいぶわかりにくい。
文化的背景も読みづらく、痛快さも少ない。

でも、万人受けだけが良作の条件ではない。

映画好きなら、このジャンル分けの難しさ、観終わった後に考察する余地、サラの選択の重み、犯人の位置づけ、町全体の危うさ、そして余韻を楽しめると思う。

胸糞要素を消費物にせず、きちんと一本の映画として着地させている。
地味だけど、芯が太い。
構成もテーマの落とし込みもかなり緻密。

『PIGGY ピギー』は、観る人を選ぶが、クオリティは高い。
社会派スリラーとして、とてもよくできた良作だった。


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