『ヴィレッジ』の個人的な考察・感想
『ヴィレッジ』の個人的な考察・感想
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①『ヴィレッジ』(2004年・アメリカ・監督:M・ナイト・シャマラン)
② あらすじ(起承転結・ネタバレあり)
起
1897年。
深い森に囲まれた閉鎖的な村で、人々は外の世界と接触せず、古い生活様式を守りながら暮らしている。
村の周囲には“あの者たち”と呼ばれる恐ろしい存在が棲んでいるとされ、森へ入ることは固く禁じられている。
村では赤い色が不吉なものとして忌避され、反対に黄土色は“あの者たち”から身を守る色として扱われていた。
盲目の女性アイヴィーは、優しく面倒見のよい性格で、村の青年ルシアスと心を通わせている。
また、知的障害のある青年ノアもアイヴィーに強い好意を抱いていた。
村人たちは皆、森の怪物を恐れながらも平穏な共同体生活を送っていた。
しかし、ルシアスは外の町へ行って薬を手に入れたいと長老たちへ申し出る。
村では薬が不足しており、外の世界へ出れば救える命があると考えたからだった。
長老たちはこれを拒否する。
それでもルシアスは森へ入り、赤い木の実を持ち帰る。
その夜、“あの者たち”が村へ姿を現す。
家々には赤い印が残され、村人たちは「警告だ」と恐怖する。
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承
ルシアスは、自分が森へ入ったことで怪物を刺激したのだと責任を感じる。
しかし、それをきっかけにアイヴィーとの関係は深まり、二人は結婚を約束する。
ところが、その事実を知ったノアは激しく嫉妬する。
アイヴィーを失うことに耐えられなかったノアは、ルシアスをナイフで何度も刺してしまう。
ルシアスは重傷を負い、さらに傷口から感染症を起こす。
村には十分な医薬品がない。
このままではルシアスが死ぬ。
そこでアイヴィーは、自ら森を抜けて外の町へ行き、薬を手に入れると決意する。
アイヴィーの父エドワード・ウォーカーは、娘にだけ村の重大な秘密を明かす。
“あの者たち”は、本当は存在しない。
村の長老たちが怪物の衣装を着て、若い世代が森へ入らないよう恐怖を利用していた。
古い納屋には、そのための怪物の衣装が隠されていた。
ただしウォーカーは、
「昔からこの森には怪物の伝説があった」
とも語る。
すべてが嘘なのか。
本当に何かがいるのか。
その部分だけは、アイヴィーにも完全にはわからないまま。
盲目のアイヴィーは、二人の若者を伴って森へ入る。
しかし同行者たちは恐怖に耐えられず、途中で村へ戻ってしまう。
アイヴィーは一人で先へ進む。
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転
森の中でアイヴィーは、深い穴へ落ちかける。
なんとか這い上がるものの、身に着けていた黄土色の外套は泥で汚れ、色がほとんどわからなくなる。
父から怪物は作り物だと教えられていても、
「もしかしたら、本当に森には何かいるのかもしれない」
という恐怖は消えない。
アイヴィーは必死に進み続ける。
すると突然、“あの者たち”の一体が彼女を追いかけてくる。
しかし観客には、その姿が長老たちの使っていた怪物の衣装そのものに見える。
アイヴィーには相手が誰なのかわからない。
彼女は恐怖に耐えながら、村の若者たちが行っていた度胸試しのように両手を広げ、怪物を待ち受ける。
怪物が襲いかかった瞬間、アイヴィーは身をかわす。
怪物は穴へ転落する。
その正体はノアだった。
閉じ込められていたノアは、床下に隠されていた怪物の衣装を見つけ、窓を破って逃げ出していた。
ノアは穴の底で死亡する。
一方、村ではノアの両親が空になった部屋と、消えた怪物の衣装を発見する。
長老たちは、自分たちが作った恐怖の仕組みが、ついに若い世代の命まで奪ったことを知る。
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結
アイヴィーはついに森を抜ける。
そこにあったのは、土の道でも昔の町でもない。
舗装された現代の道路だった。
彼女の前へ一台の警備車両が現れる。
森を囲む壁には、ウォーカー家の名前が付けられた自然保護区の表示。
ここで、村そのものの最大の秘密が明らかになる。
村は本当に1897年の共同体ではなかった。
村を作った長老たちは、現代社会で大切な家族を暴力や犯罪によって失った人々だった。
彼らは現代社会そのものに絶望し、エドワード・ウォーカーの莫大な財産を使って広大な森を買い上げ、その中に外界から隔離された共同体を作った。
警備会社まで設立して森を監視させ、周囲へ人が入らないよう徹底。
さらに政府関係者へ働きかけ、上空を航空機が飛ばないようにまでしていた。
そこで生まれた子どもたちは、外の世界が現代であることを何も知らず、自分たちは昔の時代に生きていると信じて育った。
アイヴィーは盲目であるため、道路も車も現代的な服装も見ることができない。
出会った若い警備員は不審に思いながらも、彼女が必死に薬を求めていることを信じる。
警備員は事務所へ戻り、上司から「余計なことをするな」と釘を刺されながらも、こっそり医薬品を持ち出す。
さらに壁を越えるための梯子まで用意し、アイヴィーを再び森へ帰す。
村では、エドワード・ウォーカーが長老たちへ問いかける。
この生活を、これからも続けるのか。
ノアまで死んだ。
嘘と恐怖によって守ってきた共同体を、本当に維持し続けるのか。
しかし長老たちは次々と立ち上がり、村を存続させる意思を示す。
アイヴィーは無事に村へ戻り、ルシアスのもとへ薬を届ける。
ルシアスのそばへ座り、
「戻ってきた」
と告げる。
村は真実を隠したまま、これからも存在し続ける。
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③ 考察・感想・まとめ
『ヴィレッジ』、実に20年ぶりくらいに観ました。
近年、再評価されているらしい。
なので、
「昔はあまり刺さらなかったけど、今観たら変わるかな?」
と思って再視聴。
結果。
ほぼ変わらなかった。
題材は面白い。
雰囲気もいい。
全体としてバランスも悪くない。
でも、肝心のオチがあまりにも読みやすい。
初見だった昔から、
「これ、たぶんこういうことだよな」
が次々当たってしまった。
だから観ている感覚としては、
ほぼネタバレされた状態で初見している
みたいだったんですよね。
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まず冒頭。
1897年。
子どもの葬式。
そこで時代を提示する。
でも、その時点からもう違和感がある。
正直、
「これ、本当に100年以上前か?」
となりました。
服装。
建物。
村全体の景観。
道具。
農業。
牧畜。
全部が、古い時代の共同体としては妙に整いすぎている。
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100年以上前の小さな閉鎖村なら、もっと年輪があるはずなんですよ。
建物ごとの年代差。
修理や増築の跡。
古い木材。
風雨で傷んだ壁。
代々使い回された家具。
生活道具の不揃いさ。
何世代も暮らしてきたことで生まれる、雑多さ。
そういう、
「人間が長いあいだここで暮らしてきた跡」
があまりない。
逆に、
きれい。
整っている。
新しい。
意図的に配置された感じがする。
村というより、
誰かがテーマを決めて作った再現施設
っぽいんです。
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とくに布や色。
これが綺麗すぎる。
服の布地が均質。
発色も良い。
女性たちが履いている革靴なんか、むしろ高級そう。
黄土色の外套もすごく鮮やか。
“あの者たち”が身につける赤い布も、これまた綺麗な赤。
あれだけ閉鎖された村で、
「この染料、どこから安定供給してるの?」
ってなる。
細かいことだけど、画面から受ける印象としてかなり大きい。
生活スタイルだけは古い。
でも、生活を支えている物資そのものに、古さや貧しさがない。
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そして、全面ガラス張りに近い温室まである。
これも、
「いや、この村、思ったより近代的だな」
ってなる。
農業も牧畜も妙に整っている。
夜間は物見櫓や村の各所で火を焚いている。
それもかなりの数。
毎晩あれだけ燃やすとして、
燃料どうしてるの?
薪だけ?
油?
その供給力がある閉鎖共同体なの?
もう、画面に映るものを一つ一つ見れば見るほど、
「これ時代考証が甘いのか?」
か、
「実は現代なのか?」
の二択になる。
シャマラン作品です。
そりゃあ後者を疑います。
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しかも、共同体の歴史が感じられない。
これがかなり決定的でした。
村の人々には昔からの習わしがある。
赤は不吉。
黄色は安全。
森へ入るな。
“あの者たち”を刺激するな。
表面的には、完全に因習村です。
でも、その因習が何百年も積み上がったものには感じない。
伝承というより、
誰かが決めたルールを皆で守っている
感じ。
村そのものに歴史がないから、因習にも歴史を感じない。
だから最初から、
「この共同体、作られたものなんじゃない?」
という匂いが強い。
年輪がないんですよね、村に。
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閉鎖的な村なのに、アイヴィーやノアのような人たちを普通に受け入れているのも少し気になりました。
もちろん、
「閉鎖村=必ず差別的」
ではありません。
そんな単純な話ではない。
でも、作品がわざわざ、
盲目の女性。
知的障害のある青年。
この二人を重要人物として配置して、村全体も特に排除しない。
しかもかなり面倒見がいい。
そこで、
「この共同体って、本当に昔ながらの価値観で自然発生したものなのかな?」
という違和感がまた出る。
むしろ、
現代社会に傷ついた大人たちが、理想社会として設計した共同体
だと考えるとものすごくしっくりくる。
結果、これもオチのヒントになってしまう。
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ノアが森へ入っても、
「彼は無垢だから、“あの者たち”も見逃してくれている」
みたいな説明を長老がする。
ここも、
おやおや。
そんな都合のいい例外ある?
となる。
怪異のルールが本当に存在するなら、
「無垢だから許される」
という根拠がどこにあるの?
誰が確認したの?
ただ村の大人たちが、
ノアには怪物のルールを徹底できないから、後づけで説明している
ようにしか見えない。
だから、
「あ、ここ後で回収されるな」
って思いました。
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さらにルシアス。
森へ入り、赤い実を持ち帰る。
その直後、“あの者たち”が村へやって来る。
家に赤い印を付ける。
でも、直接人間を襲わない。
これも怪異としては不自然なんですよ。
森へ入ったら怒る。
赤を持ち込んだら怒る。
なのに、人間を殺さない。
村の中まで入ってきたのに、脅して帰る。
つまり、
恐怖によって行動を修正させたい誰か
のやり方なんですよね。
本物の怪異というより、教育装置。
村の重鎮が若者へ、
「森へ行くなよ」
と脅している。
そのまんまです。
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そして“あの者たち”の姿が見える。
赤いフード。
動物のような装飾。
ものすごく作為的な造形。
そこで、もうほぼ確信。
「はい、着ぐるみ。村の重鎮がやってる。」
怪物の姿に、
未知の生物感があまりない。
人間が作った民俗衣装っぽい。
しかも「赤ずきん」的なイメージまで強い。
森。
赤いフード。
禁忌。
怪物。
童話的な記号としてはすごくわかりやすい。
だから昔の記憶で、
「なんか赤ずきんっぽい映画だったな」
が残って、いつの間にか、
「赤ずきんっぽいタイトルの映画」
へ記憶がすり替わっていたくらい。
でも、ホラーの怪物としては、人工感が強すぎた。
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そうなると、物語の謎は、
「怪物は本物か?」
ではなく、
「村の大人たちは、何を隠すために怪物を作ったのか?」
へ移る。
森の先に何かある。
若者を出したくない。
外へ行くことを禁止している。
なら、
外には村の大人たちが隠したい真実がある。
そこまではかなり簡単に読める。
あとは、
「外がどうなっているか」
だけ。
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そこで最初の時代感の違和感へ戻る。
1897年に見えない。
建物が新しい。
物資が現代的。
共同体に歴史がない。
なら、
実際は現代。
もうほぼこれ。
だから終盤でアイヴィーが森を抜けて舗装道路へ出ても、
「ええええ!?」
ではない。
「はい、やっぱり。」
になる。
ここが、この作品の最大の弱点だと思います。
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しかも、アイヴィーが森へ向かう展開も、理由がかなり読みやすい。
ルシアスが刺される。
薬がない。
アイヴィーだけに秘密を教える。
なぜアイヴィーなのか。
盲目だから。
外へ行っても、
車。
道路。
現代の建物。
現代人の服装。
何も見えない。
つまり、
外へ出しても村の真実を視覚的に持ち帰れない人物。
これ、脚本上あまりにも都合がいい。
だから、
「盲目の主人公」という設定まで、
最初から結末のために用意されたパーツに見えるんですよね。
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ただし、ここは単なる悪意ある利用ではなかったと思います。
エドワード・ウォーカーは、娘だから特別扱いしただけでもない。
ルシアスを救いたい。
そして同時に、
この村のあり方そのものを問い直し始めていた。
ノアがルシアスを刺した。
自分たちは外の暴力から子どもたちを守るため、この村を作った。
なのに村の中でも、嫉妬から殺人未遂が起きた。
つまり、
人間の暴力は、社会を閉じれば消えるわけではなかった。
ここでエドワードの理想は一度崩れている。
だからアイヴィーを外へ行かせたのは、
娘の恋人を救うためであり、
自分たちが作った共同体を今後も続けるのか試す意味もあったんだと思います。
ここは作品として面白いところでした。
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ただ、その先のノアの怪物化も読めちゃう。
アイヴィーが森で“あの者”に追われる。
観客には、もう怪物が作り物だと明かされている。
なのに同じ着ぐるみが現れる。
じゃあ中身は誰?
村の長老?
でも長老たちはアイヴィーを送り出した。
彼女を殺す理由がない。
となると、
村のルールを理解しきれず、
アイヴィーに執着し、
閉じ込められていて、
しかも着ぐるみを見つけられそうな人物。
ノアしかいない。
なので、ここもサスペンスにならない。
「あー、ノアだな」
で進んじゃう。
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そして案の定、ノア。
床下に隠されていた着ぐるみ。
破られた窓。
穴へ落ちる怪物。
全部きちんと伏線回収されています。
設計そのものは綺麗。
雑ではないんです。
むしろ、かなり几帳面。
問題は、
几帳面すぎて読める。
これなんですよね。
伏線が伏線として目立つ。
怪しいものが、そのまま怪しい。
あとで回収されるものが、最初から「回収されますよ」と自己主張している。
だから驚きが薄い。
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そして最大のオチ。
村は現代に作られた人工共同体だった。
長老たちは全員、現代社会で大切な人を凄惨な形で失っている。
犯罪。
暴力。
事故。
そうした悲しみから逃れ、
「無垢で安全な社会を一から作ろう」
とした。
エドワード・ウォーカーは莫大な財産を持っていた。
その金で広大な森を買う。
警備会社を作る。
外部の侵入を防ぐ。
政府関係者にまで金を使い、上空を飛行禁止にする。
そして、自分たちの子どもには現代社会そのものを知らせない。
すごいことやってます。
題材としてはかなり面白い。
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でも、ここまでやると、
村は理想郷ではなく、
巨大な社会実験
なんですよね。
子どもたちは、自分が何を選ぶか決める権利を最初から奪われている。
外には犯罪がある。
暴力がある。
悲しみがある。
だから外を知らないほうが幸せ。
それを親世代が勝手に決める。
そして怪談まで作り、
森へ行けば怪物に殺されると教え、
恐怖で子どもたちを閉じ込める。
これは保護でもあるけれど、同時に支配です。
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だから“あの者たち”って、
実はこの作品で一番重要な怪物だと思います。
本物の怪物ではない。
でも、怪物という嘘によって、
村の秩序が維持される。
子どもは恐怖を内面化する。
誰も森へ行かない。
つまり怪物の実在より、
怪物を信じさせること
のほうが重要。
これは宗教的禁忌や因習と同じ構造です。
「なぜダメなのか」は説明しない。
「破れば恐ろしいことが起こる」
と教える。
そして次世代が、そのルールを自分から守るようになる。
そういう意味では、題材そのものはかなり面白いんです。
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さらに面白いのが、
長老たちが村を作った理由自体には、ものすごく共感できること。
大切な人を暴力で失った。
社会が嫌になる。
こんな世界で子どもを育てたくない。
もっと穏やかな場所で暮らしたい。
気持ちはわかる。
でも、
その理想を守るために、
子どもへ嘘をつき、
恐怖を植えつけ、
外の世界を選ぶ自由まで奪う。
結果、
暴力を排除するための共同体の中で、ノアがルシアスを刺す。
ここはかなり皮肉です。
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犯罪を排除しても、人間の嫉妬までは排除できない。
社会制度を作り直しても、人間の感情までは作り直せない。
外の世界を消しても、
欲望。
嫉妬。
怒り。
恋愛。
執着。
こういうものは村の中にも生まれる。
つまり、長老たちが本当に逃げたかったものは、
現代社会ではなく、
人間そのものの不完全さ
だった。
でも、人間が作る共同体である以上、それからは逃げられない。
ここは今観ても、ちゃんと面白いテーマだと思います。
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だから、近年再評価されている理由もわからなくはない。
公開当時は、
「シャマランの新しいどんでん返しホラー!」
みたいな期待が強かった。
『シックス・センス』の監督ですからね。
観客は、
最後に何がひっくり返るのか。
怪物の正体は何なのか。
村にはどんな秘密があるのか。
そこを楽しみにする。
でも仕掛け自体はかなり読みやすい。
だから、
「それだけ?」
となる。
その失望で評価が落ちた部分はあったと思います。
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一方、今はオチを知ったうえで、
共同体。
親世代のトラウマ。
恐怖を利用した支配。
外部社会の暴力から逃れることは可能なのか。
理想郷は成立するのか。
という寓話として観る人が増えた。
そうすれば、
「意外なオチの映画」
ではなく、
閉鎖共同体を使った寓話
として評価し直せる。
その再評価の理屈はわかります。
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でも。
それでも私は、
評価が大きく上がるほどではない。
と思いました。
テーマは面白い。
設定も面白い。
ジェームズ・ニュートン・ハワードの音楽もいい。
映像も綺麗。
アイヴィーとルシアスの恋愛も、作品の静かな雰囲気には合っている。
長老たちも単純な悪人ではなく、それぞれ深い喪失を抱えている。
良いところはちゃんとある。
でも、
作品の最大の仕掛けが読めすぎる。
ここはやっぱり大きい。
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とくに映画をある程度観ていると、
閉鎖村。
外へ出るな。
怪物。
因習。
長老たち。
若者は真実を知らない。
この時点で、
「長老が何か隠してる」
はかなり定番です。
さらに画面そのものが、
「ここ本当の昔じゃないよ」
というヒントを大量に出している。
だから、
ホラーやサスペンスを観慣れた人ほど、
仕掛けを先に読む可能性は高いと思います。
もちろん、映画好きでもこの作品が好きな人はいる。
オチではなく寓話性を評価する人もいる。
それは全然おかしくない。
ただ、
「驚き」という武器はかなり弱い。
そこは否定できないと思います。
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シャマランって、ときどきありますよね。
アイデアはいい。
題材もいい。
映像もいい。
途中まではかなりいい。
でも、
「もう少し整理すれば傑作だったのに」
とか、
「そこをそんなに引っ張る?」
とか、
「最後それでいいの?」
となる作品。
『ヴィレッジ』は、雑に崩れた作品ではない。
むしろ整ってる。
でも、
整ってるぶん、手の内まで綺麗に見えちゃった。
そんな感じです。
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ラストで、長老たちが村の継続を選ぶのも興味深い。
普通なら、
ノアが死んだ。
ルシアスも死にかけた。
アイヴィーは外へ出た。
嘘は限界に来ている。
だから、
「もう終わりにしよう」
となりそう。
でも、彼らは続ける。
ここまで失ったものを考えれば、もう戻れないのでしょう。
自分たちが人生を賭けて作った共同体。
子どもたち。
何十年もの生活。
それを、
「やっぱり間違いでした」
とは簡単に認められない。
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しかも、ノアの死は逆に利用できる。
“あの者たち”は本当にいた。
森へ入ったノアは怪物に殺された。
そういう新しい伝説を作れる。
つまり、
共同体を壊しかけた事件が、
共同体をさらに強化する新しい神話
になってしまう。
これ、かなり怖いですよね。
嘘によって作られた因習が、
実際の死者を得たことで本物の伝承へ変わる。
次の世代からすれば、
「昔、森へ入ったノアという青年が、“あの者たち”に殺された」
という史実になる。
もちろん真実は違う。
でも知る者が死ねば、物語だけが残る。
ここはかなり面白い。
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だから、
作品のテーマそのものを考えれば、結構よくできている。
でも、
映画として初見でどれだけ刺さるか。
そこは別。
私は昔も、
「題材はいいけど、読めすぎたな」
だった。
今観ても、
「やっぱり題材はいいけど、読めすぎるな」
でした。
20年経って評価が変わらなかった。
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総合すると、
「現代社会の暴力から逃れた大人たちが、恐怖と嘘によって人工の理想郷を維持する、閉鎖共同体の寓話」
として見るなら、なかなか面白い作品です。
怪物そのものは存在しない。
本当の怪物は、人間でもない。
もっと正確に言えば、
人間が恐怖を利用して作り上げた制度
なんだと思います。
子どもを守りたい。
その善意が、
子どもから選択肢を奪う。
平和な社会を作りたい。
その理想が、
恐怖による統治を必要とする。
暴力から逃れたい。
それでも共同体の内部から暴力は生まれる。
この皮肉はちゃんと効いています。
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ただし、サスペンス映画としてはかなり弱い。
冒頭から時代感がおかしい。
村に歴史がない。
生活だけが古く、物資は妙に新しい。
怪物が人工物っぽい。
長老たちの脅し方も、怪異というより教育的。
盲目のアイヴィーが外へ向かう設定も、オチとの相性が良すぎる。
ノアが怪物の中身になる展開も読みやすい。
森の外が現代なのも、かなり早く察せられる。
つまり、
仕掛けを隠したい映画なのに、仕掛けの痕跡を出しすぎている。
ここがどうしても弱い。
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再評価される理由はわかる。
雰囲気もいい。
テーマもいい。
寓話として見れば悪くない。
でも、再評価できるとしても、私の中ではその範囲。
「実は大傑作だった!」
とまではならない。
昔の印象は、そんなに間違ってなかったです。
良いところはある。
でも、オチが読めすぎる。
そのせいで作品の最大火力が出る前に、自分で答えを見せてしまっている。
そんな作品でした。
ホラー館はコチラ↓
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