『ブレア・ウィッチ・プロジェクト/ブレア・ウィッチ』の個人的な考察・感想
『ブレア・ウィッチ・プロジェクト/ブレア・ウィッチ』の個人的な考察・感想
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①『ブレア・ウィッチ・プロジェクト/ブレア・ウィッチ』
『ブレア・ウィッチ・プロジェクト』(1999年・アメリカ・監督:ダニエル・マイリック、エドゥアルド・サンチェス)
『ブレア・ウィッチ』(2016年・アメリカ・監督:アダム・ウィンガード)
② あらすじ(起承転結・ネタバレあり)
起
1994年、映画を学ぶ学生ヘザーは、仲間のジョシュ、マイクとともに、メリーランド州バーキッツヴィルに伝わる「ブレアの魔女」の伝説を題材としたドキュメンタリーを撮影するため現地を訪れる。
三人は町の住民に聞き込みを行い、森で子どもたちを殺した男ラスティン・パーや、子どもを一人ずつ壁の隅に立たせて殺したという不気味な逸話を知る。
軽い調査旅行のつもりで、三人は撮影機材とキャンプ用品を持って森へ入っていく。
続編『ブレア・ウィッチ』では、その前作の事件からおよそ20年後、ヘザーの弟ジェームズが、ネット上に投稿された映像の中に失踪した姉らしき人物が映っていることに気づく。
姉が今も森の中で生きているかもしれないと考えたジェームズは、友人のリサ、ピーター、アシュリーとともにバーキッツヴィルへ向かう。
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承
『ブレア・ウィッチ・プロジェクト』では、森の中で三人は、棺岩や墓地のように積み上げられた石、木々に吊るされた奇妙な人形などを発見する。
ところが、帰路につこうとしても地図どおりに進めず、同じ場所へ戻ってきてしまう。夜になるとテントの周囲を何者かが歩き回り、子どもの声や不気味な物音が聞こえるようになる。
疲労と恐怖が蓄積し、三人の関係は次第に悪化する。
マイクが地図を川へ捨てていたことが発覚し、ヘザーは撮影を続けることに執着し、ジョシュも怒りと不安を募らせる。
やがてジョシュが姿を消す。
その後、ヘザーとマイクはジョシュの叫び声らしきものを聞き、血や歯のようなものが包まれた布を発見する。
一方、『ブレア・ウィッチ』では、案内役のレーンとタリアを加えた一行が再び森へ入り、前作と同じような奇妙な石の山や、木に吊るされた不気味な人形を発見する。
しかし森の中では、空間だけでなく時間の流れまで狂い始める。夜が異常なほど長く続き、位置情報や通信機器も役に立たない。
レーンとタリアが石の山を自分たちで作ったことが判明し、一行は二人を追放するが、その後も説明できない現象は続き、仲間たちは一人ずつ怪異によって追い詰められていく。
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転
『ブレア・ウィッチ・プロジェクト』では、ジョシュの声を追ったヘザーとマイクが、森の奥にある廃屋へたどり着く。
それは、かつて子どもたちを殺したラスティン・パーの家を思わせる建物だった。
二人はジョシュの声に導かれるように屋敷へ入り、別々に地下へ向かう。
先に進んだマイクが何者かに襲われ、カメラが床へ落ちる。
ヘザーも地下へたどり着き、そこで壁の隅を向いて立っているマイクの姿を目撃する。
一方、『ブレア・ウィッチ』では、ジェームズとリサが森の奥で前作と同じ廃屋へたどり着く。
失踪したはずのレーンは、森の中で長い年月を過ごしたかのような姿になっており、森の内部では外の時間とはまったく異なる時間が流れている可能性が示される。
ジェームズは姉ヘザーの声を聞き、屋敷の中へ誘い込まれる。しかし、それは姉本人ではなく、怪異がジェームズを誘導するために使った罠だった。
リサも屋敷へ入り、異様な姿の存在に追われながら逃げ続ける。
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結
『ブレア・ウィッチ・プロジェクト』では、序盤に語られた「ラスティン・パーが子どもを二人連れて地下へ行き、一人を壁の隅へ立たせてもう一人を殺した」という伝承どおり、マイクは壁の隅を向いて立たされていた。
直後、ヘザーも何者かに襲われてカメラを落とす。
映像はそこで途切れ、三人がその後どうなったのかも、森で本当は何が起きていたのかも明かされない。残されたのは、後に森で発見された撮影テープだけだった。
『ブレア・ウィッチ』では、ジェームズは姉の声に振り返ったところを怪異に襲われる。
リサは「振り返ってはいけない」と理解し、カメラ越しに背後を確認しながら脱出を試みるが、怪異はジェームズの声まで利用してリサを呼び止める。
リサはついに振り返り、襲われる。
映像は途切れ、今回も森へ入った若者たちは全滅する。
さらに、ジェームズたちが森へ入るきっかけとなった最初の映像そのものが、リサのカメラによって撮影された可能性が示される。
彼らは姉を探しに森へ入ったのではなく、最初から森が仕掛けた時間の輪へ呼び込まれていたのである。
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③ 考察・感想・まとめ
『ブレア・ウィッチ・プロジェクト』と続編『ブレア・ウィッチ』を久しぶりに観ました。
昔観たときの記憶が曖昧になっていたり、後から必要以上に怖い作品として美化していたりすることもなく、だいたい記憶どおり。
普通に面白かった。
ただ、世間ではこの作品を「胸糞悪い」「後味が悪い」と表現する人も多いらしい。
そこが私には、いまひとつピンとこなかった。
登場人物同士が極限状態で争うから?
救いがないから?
全員が死ぬから?
いやいや、そんな映画は他にいくらでもあります。
むしろブレアの出口のなさこそ、この作品の肝であり、一番良いところでしょう。
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三人が森へ入り、棺岩のあたりへ足を踏み入れた段階で、
「あ、これもう絶対に帰れないやつだな」
と察する。
森の中で道に迷ったというより、すでに普通の森ではない。
同じ場所へ戻ってくる。
方角が意味を失う。
地図もコンパスも役に立たない。
移動しているはずなのに、空間そのものが閉じている。
この段階で三人は、物理的な森ではなく、すでに怪異の支配する異界へ入り込んでいる。
そう考えれば、その後に何をしても帰れないのは当然なんです。
だから私の感覚では、
「はい、安穏。救いはないね。ここに入った時点で終わりだったね」
となる。
別に理不尽な結末でも、投げっぱなしでもない。
異界へ踏み込んだ者が戻れない。
日本の怪談では、昔からいくらでもある王道の構造です。
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日本のホラーや怪談に慣れていると、
救いがない=失敗
とは感じません。
怪異に遭遇したら退治する。
悪霊の正体を解明して浄化する。
主人公が反撃して勝つ。
そういうホラーももちろんありますが、日本の怪談はむしろ、
踏み込んだ時点で終わり
知った時点で手遅れ
逃げても追ってくる
説明されないまま消える
という作品が多い。
『呪怨』だって、呪いの家へ関わった時点でほぼ終了。
『回路』も、原因を突き止めて世界を救う話ではない。
『仄暗い水の底から』も、綺麗な完全救済では終わらない。
怪異は人間の都合に合わせて解決してくれる存在ではありません。
その文法を知っている日本人なら、『ブレア・ウィッチ・プロジェクト』の結末は、むしろかなりしっくりくると思うんですけどね。
森へ入った。
境界を越えた。
もう戻れない。
それだけ。
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三人は、ブレアの魔女を本気で信仰しているわけでも、恐れているわけでもありません。
伝説を調べ、映像を撮り、ドキュメンタリー作品にする。
つまり、最初は取材対象であり、撮れ高なんですね。
もちろん彼らは現地の人々を積極的に侮辱したわけでも、何かを破壊したわけでもない。
それでも、怪異の領域へ入る姿勢としては軽い。
なんとなく面白そう。
映像にしたい。
伝説の舞台を見てみたい。
その程度の意識で、入ってはいけない領域に入った。
だから観ながら思うわけです。
「物見遊山でやることじゃないんだよ。」
廃墟や心霊スポットへ、面白半分で騒ぎながら入っていく連中の末路と同じです。
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『ブレア・ウィッチ・プロジェクト』は『食人族』と似ているところが多い。
どちらも、カメラを持った人間が、自分たちの理解の外にある領域へ入っていく。
そして最終的に人間は消え、残された映像だけが回収される。
観客が見ているのは、生還者が語る冒険ではありません。
すでに全滅した者たちの記録です。
最初から結末は決まっている。
それでも、彼らがどのように追い詰められていったのかを、残された映像から追体験する。
ここはほぼ同じ構成です。
違いは、彼らを呑み込むものが何か。
『食人族』は人間。
『ブレア』は怪異。
そして、胸糞という点に絞って比較するなら、『食人族』のほうが何倍も胸糞悪い。
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『ブレア・ウィッチ・プロジェクト』は、救いがない作品ではあります。
でも基本的には、
「異界へ入ったら帰れませんでした」
という怪談です。
登場人物たちは少し軽率だったかもしれないけれど、他人を積極的に傷つけ、辱め、搾取したわけではない。
彼らの口論も、疲労や空腹、恐怖、遭難状態を考えればごく自然なものです。
醜い争いと言われても、あの状況で全員が冷静かつ協力的でいられるほうが不自然でしょう。
だから私は、彼らの関係崩壊を特別胸糞悪いとは思いません。
一方、『食人族』の取材班は違う。
自分たちで現地の人々へ暴力を振るい、悲惨な映像を作り、被害を演出し、それを刺激的な作品として世間へ持ち帰ろうとする。
怪物だと思っていた者たちより、取材する側の人間のほうがはるかに醜悪だった。
つまり、
ブレアは詰みの怖さ。
食人族は人間の最低さ。
構成は似ていても、胸糞の質はまったく違います。
『ブレア』は絶望的だけれど、作品としては端正。
『食人族』は意図的に観客まで汚す作品。
胸糞度で比べるなら、どう考えても『食人族』の圧勝です。
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ブレアが胸糞扱いされる理由として、三人の口論や責任の押し付け合いが挙げられることがあります。
でも、正直なところ、
「あれのどこがそこまで醜いのか?」
と思います。
道に迷っている。
食料も減っている。
毎晩、何者かがテントの周囲を歩いている。
眠れない。
帰れる見込みもない。
しかも地図は川へ捨てられた。
この状況で、
「大丈夫、みんなで力を合わせよう」
と爽やかに励まし合えるほうが、よほど作り物です。
ヘザーが撮影へ執着するのも、自分の計画が失敗したと認めたくない気持ちと、カメラを通して状況を制御しようとする防衛でしょう。
マイクが地図を捨てたのも最低の判断ではありますが、追い詰められた人間の衝動として理解はできる。
ジョシュが怒るのも当然。
あれは人間の本性が醜いというより、
「極限状態によって、普段なら抑えられている苛立ちや恐怖が表面化しただけ」
だと思います。
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『ブレア・ウィッチ・プロジェクト』は、
「何も起こらない」
「魔女が映らない」
「最後までよくわからない」
と不評になることもあります。
でも、何も起きていないわけではない。
むしろ、森へ入ってからずっと異常は続いています。
ただし、怪物が正面から襲いかかってこないだけ。
道が消える。
同じ場所へ戻る。
石の山が増える。
木々に人形が吊るされる。
夜中に子どもの声が聞こえる。
テントが揺さぶられる。
仲間が消える。
その仲間の身体の一部らしきものが届けられる。
廃屋から声がする。
これだけ起きていて、何もないわけがない。
怪異が姿を見せないからこそ、人間側には対処の方法がありません。
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初代のラストは、ホラー映画史に残るほど有名です。
地下室。
壁の隅を向いて立つマイク。
そして倒れるカメラ。
派手な怪物も、流血も、説明台詞もない。
でも序盤に語られたラスティン・パーの殺害方法を覚えていれば、何が起きているのかはわかる。
子どもを二人連れて地下へ行き、一人を壁の隅へ立たせ、もう一人を殺す。
あの伝承が、最後に現実となって戻ってきた。
壁の隅に立っているマイクを見た瞬間、ヘザーも、観客も、
「もう終わった」
と理解する。
この「見せなくてもわかる」が見事なんですよね。
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続編『ブレア・ウィッチ』は、初代より怪異をかなり積極的に見せています。
初代が、
「森の中で何が起きているのかわからない恐怖」
なら、続編は、
「森の怪異がどんな方法で人間を追い詰めるのか」
を具体的にした作品。
時間の流れが歪む。
夜が終わらない。
別々の時間軸が接続する。
人形を壊すと、それと連動して人間の身体まで折れる。
傷口から異物が動く。
巨大な何かが木々の間を歩く。
廃屋の内部空間も、現実の建物とは思えないほど歪んでいる。
初代の余白を保ちながら、怪異の作用をかなり拡大しています。
そのぶん、初代のような「実話映像かもしれない」という生々しさは弱くなった。
でも、正統続編として同じことを繰り返すのではなく、森そのものが持つ異界性を強めた方向性は悪くなかったと思います。
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続編で面白いのは、ジェームズたちが自分の意思で森へ入ったように見えて、実際には最初から森に呼び込まれていたこと。
ジェームズは、投稿映像に姉ヘザーらしき女性が映っていると考えます。
だから、まだ姉を救えるかもしれないと思って森へ向かう。
しかし終盤、最初の投稿映像が、森へ入ったリサのカメラで撮影されたものだった可能性が出てくる。
原因と結果が逆転しているんですね。
ジェームズたちが映像を見て森へ行ったから、その映像が撮影された。
その撮影された映像が過去へ流れ、ジェームズたちを森へ呼び込む。
完全な時間の輪です。
つまり彼らはヘザーを探しに行ったのではない。
森がジェームズの姉への思いを利用し、自分の中へ引き込んだ。
姉の姿も声も、救済の可能性も、最初から餌だった。
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初代の森も異界でしたが、続編ではそれがさらに明確になります。
森は単なる舞台ではない。
侵入者を迷わせ、時間を歪め、記憶や声を利用し、最終的に廃屋へ誘導する。
それ自体が巨大な罠です。
怪異の正体が魔女一人なのか、森全体なのかは明かされません。
でも、少なくとも森へ入った者は、空間と時間の両方を支配される。
いくら高性能なカメラやGPS、ドローンを持ち込んでも意味がない。
初代より技術は進歩している。
それでも怪異には対抗できない。
むしろ、撮影機材が増えたことで視点が増え、森に利用される記録も増えている。
現代的な装備を持ち込んだ人間が、昔とまったく同じように消えていく。
ここも皮肉で良かったです。
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続編の終盤では、怪異を直接見てはいけない、振り返ってはいけないというルールが示されます。
これはもう、世界中の神話や怪談にある古典的な禁忌です。
黄泉の国から帰る途中で振り返ってはいけない。
声をかけられても返事をしてはいけない。
後ろに何かいても見てはいけない。
怪異は人間の情を利用します。
ジェームズには姉ヘザーの声。
リサにはジェームズの声。
理屈では罠だとわかっている。
それでも、大切な人の声を無視できない。
だから振り返ってしまう。
怪異に力負けしたというより、人間としての情を利用されて負けた。
ここも王道です。
わかっていても抗えない。
期待を裏切らない、しっかり詰ませる結末でした。
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このシリーズで、生還者が出て怪異の正体が解明され、森が封鎖され、魔女が退治される。
そんな結末になったら、ブレアではありません。
ブレアの森は、人間が攻略するためのダンジョンではない。
調査隊が入って謎を解く場所でもない。
入った者が消える場所です。
だから全滅は当然。
救いがないことに不満を持つより、
「救いがあると思って入ったのが間違い」
という作品なんですよね。
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『ブレア・ウィッチ・プロジェクト』は、醜い人間同士の争いを描いた胸糞映画ではない。
「異界へ踏み込んだ人間が、じわじわと現実から切り離され、帰る道を失っていく怪談」
です。
口論はある。
責任の押しつけ合いもある。
しかし、それは胸糞悪い人間性の暴露というほどではなく、極限状態に置かれた普通の若者たちの自然な崩壊です。
本当に怖いのは人間ではない。
出口がないこと。
相手の姿が見えないこと。
現在地がわからないこと。
時間も空間も信用できないこと。
そして、助かるための行動が何一つ存在しないこと。
初代は、その恐怖を最低限の映像で描いた。
続編は、その森が持つ異界性を時間の歪みや直接的な怪異描写によって拡張した。
方向性は違っても、どちらも結論は同じです。
「森へ入った時点で終わり。」
だから私には、特別胸糞悪い結末にも、投げっぱなしにも見えません。
むしろホラーとしてきわめて王道。
『食人族』と同じように、カメラを持った者が未知の領域へ踏み込み、本人たちは消え、記録だけが残る。
ただし『食人族』が人間の醜悪さを見せつける作品なら、『ブレア』は異界の無慈悲さを見せる作品。
胸糞度なら『食人族』のほうが何倍も上。
ブレアはただ、入ってはいけない場所へ入った者が帰れなかっただけです。
それを理不尽と見るか、怪談として当然と見るか。
私は完全に後者。
「物見遊山で、怪異の領域へ入るものではない。」
何も起きなければ撮れ高がない。
何か起きたら面白い。
そんな気分で入って、本当に何かがいたなら、もう撮影どころではありません。
ブレアの森は、人間の好奇心や喪失感を餌にして、次の侵入者を呼び続ける。
初代で三人が消えても終わらない。
残された映像が、今度はヘザーを探す弟を呼び込む。
記録は警告ではなく、次の餌になる。
そう考えると、このシリーズそのものが、終わることのない怪談になっています。
「出口がないから怖い。」
「救いがないから完成している。」
久しぶりに観ても、やはり普通にしっくりくる、安定した異界侵入ホラーでした。
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